だ。強い意志でわが思いを抑《おさ》えている。いくら抑えてもただ抑えているというだけで、決して思いは消えない。むしろ抑えているだけ思いはかえって深くなる。一念深く省作を思うの情は増すことはあるとも減ることはない。話し合いで別れて、得心《とくしん》して妻を持たせながら、なおその男を思っているのは理屈に合わない。いくら理屈に合わなくとも、そういかないのが人間のあたりまえである。おとよ自身も、もう思うまいもう思うまいと、心にもがいているのだけれど、いくらもがいてもだめなのである。
「わたしはまあ、しようがないなあ、どうしたらえんだろ、ほんとにしようがないな」
人さえいなければそういって溜息《ためいき》をつくのは夜ごと日ごとのことである。さりとてよそ目に見たおとよは、元気よく内外《うちそと》の人と世間話もする。人が笑えば共に笑いもする。胸に屈託のあるそぶりはほとんど見えない。近所隣へいった時、たまに省作の噂《うわさ》など出たとておとよは色も動かしやしない。かえっておとよさんは薄情だねいなど蔭言《かげごと》を聞くくらいであった。それゆえおとよが家に帰って二月たたないうちに、省作に対するおとよの噂はいつ消えるとなしに消えた。
胸にやるせなき思いを包みながら、それだけにたしなんだおとよは、えらいものであるが、見る人の目から見れば決して解《わか》らぬのではない。
燃えるような紅顔であったものが、ようやくあかみが薄らいでいる。白い部分は光沢を失ってやや青みを帯《お》んでいる。引き締まった顔がいよいよ引き締まって、眼《め》は何となし曇っている。これを心に悩みあるものと解らないようでは恋の話はできない。
それのみならず、おとよは愛想のよい人でだれと話してもよく笑う。よく笑うけれどそれは真からの笑いではない。ただおはまが来た時にばかり、真に嬉《うれ》しそうな笑いを見せる。それはどういうわけかと聞かなくても解ろう。それでおはまが帰る時には、どうかすると涙を落すことがある。
それならばおはまを捕えて、省作の話ばかりするかと見るに決してそうでもない。省作の話はむしろあまりしたがらない。いつでも少し立ち入った話になると、もうおよしと言ってしまう。直接には決して自分の心持ちを言わない。また省作の心を聞こうともせぬ。その癖、省作の事については僅《わず》かな事にまで想像以外に神経過敏である。深田の家は財産家であるとか、省作は深田の家の者に気に入られているとか、省作は元気よく深田の家に働いているとか、省作はあまり自分の家へ帰ってこないとか、こんな噂《うわさ》を聞こうものなら、何べん同じ噂を聞いても、人の前にいられなくなって、なんとか言って寝てしまうのが常である。そりゃおとよの事ゆえ、もちろん人の目に止まるようなことはせぬ。でそういう所に意志を労するだけおとよの苦痛は一層深いことも察せられる。もとより勝ち気な女の持ち前として、おとよがかれこれ言うたから省作は深田にいないと世間から言われてはならぬと、極端に力を入れてそれを気にしていた。それであるから、姉妹《きょうだい》もただならぬほど睦《むつ》まじいおはまがありながら、別後一度も、相思の意を交換した事はない。
表面すこぶる穏やかに見えるおとよも、その心中には一分間の間も、省作の事に苦労の絶ゆることはない。これほどに底深く力強い思いの念力、それがどうして省作に伝わらずにいよう。
省作は何事も敏活にはやらぬ男だ。自分の意志を口に現わすにも行動に現わすにも手間のとれる男だ。思う事があったって、すぐにそれを人に言うような男ではない。それゆえおとよの事については随分考えておっても、それをおはまにすら話さなかった。ことに以前の単純の時代と反対に、自分にはとにかく妻というものができ、一方には元の恋中《こいなか》の女が独身でいて、しかもどうやら自分の様子に注意しているらしく思われる境涯、年若な省作にはあまりに複雑すぎた位置である。感覚の働きが鈍ったわけではないけれど、感覚の働きがまごついているような状態にある。省作はまるで自分の体が宙に釣られてる思いがしている。こういう時には必ず他の強い勢力を感じやすい。おとよの念力が極々《ごくごく》細微な径路を伝わって省作を動かすに至った事は理屈に合っている。
「おとよさんは、わたしがいくとそりゃ嬉《うれ》しがるの、いくたびにそうなの、人がいないとわたしを抱いてしまうの、それでわたしが帰る時にはどうかすると涙をこぼすの」
おはまからこれだけの言を聞いたばかりで、省作はもう全身の神経に動揺を感じた。この時もはや省作は深田の婿でなくなって、例の省作の事であるから、それを俄《にわ》かに行為の上に現わしては来ないが、わが身の進転を自ら抑《おさ》える事のできない傾斜の滑道にはいってしまった。
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