のことばを用いぬといえば泣き伏してしまう。
「斎藤の縁談を断わったのはお前の意《こころ》を通したのだから、今度は相当の縁があったら父の意に従えと言うのだ」
それをおとよはどうしても、ようございますといわないから、父の言《い》い状《じょう》が少しも立たない。それが無念で堪《たま》らぬのだ。片意地ではない、家のためだとはいうけれど、疳《かん》がつのってきては何もかもない、我意を通したい一路に落ちてしまう。怒《おこ》って呆《あき》れて諦《あきら》めてしまえばよいが、片意地な人はいくら怒っても諦めて初志を捨てない。元来父はおとよを愛していたのだから、今でもおとよをかわいそうと思わないことはないけれど、ちょっと片意地に陥るとわが子も何もなくなる、それで通常は決して無情酷薄な父ではないのである。
おとよはだれの目にも判るほどやつれて、この幾日というもの、晴れ晴れした声も花やかな笑いもほとんどおとよに見られなくなった。兄夫婦も母も見ていられなくなった。兄は大抵の事は気にせぬ男だけれどそれでもある時、
「おとッつさんのように、そう執念深くおとよを憎むのは一体|解《わか》らない。死んでもえいと思うくらいなら、おとよの料簡《りょうけん》に任してもえいでしょう」
こういうと父は、
「うむ、そんな事いってさんざん淫奔《いたずら》をさせろ」
すぐそういうのだからどうしようもない。ことにお千代は極端に同情し母にも口説《くど》き自分の夫にも口説きしてひそかに慰藉《いしゃ》の法を講じた。自ら進んで省作との間に文通も取り次ぎ、時には二人を逢《あ》わせる工夫もしてやった。
おとよはどんな悲しい事があっても、つらい事があっても、省作の便《たよ》りを見、まれにも省作に逢うこともあれば、悲しいもつらいも、心の底から消え去るのだから、よそ目に見るほど泣いてばかりはいない。例の仕事|上手《じょうず》で何をしても人の二人前働いている。
父は依然として朝飯夕飯のたびに、あんなやつを家へ置いては、世間へ外聞が悪い、早くどこかへ奉公にでもやってしまえという。母は気の弱い人だから、心におとよをかわいそうと思いながら、夫のいうことばに表立って逆らうことはできない。
「おとよを奉公にやれといったって、おとよの替わりなら並みの女二人頼まねじゃ間に合わない」
いさくさなしの兄はただそういったなり、そりゃいけないとも
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