へきてくれ、おとよ」
「ハア」
 おとよは平生《へいぜい》でも両親に叮嚀《ていねい》な人だ、ことに今日は話が話と思うものから一層改まって、畳二畳半ばかり隔てて父の前に座した。紫檀《したん》の盆に九谷《くたに》の茶器|根来《ねごろ》の菓子器、念入りの客なことは聞かなくとも解る。母も座におって茶を入れ直している。おとよは少し俯向《うつむ》きになって膝《ひざ》の上の手を見詰めている。平生顔の色など変える人ではないけれど、今日はさすがに包みかねて、顔に血の気《け》が失せほとんど白蝋《はくろう》のごとき色になった。
 自分ひとりで勝手な考えばかりしてる父はおとよの顔色などに気はつかぬ、さすがに母は見咎《みとが》めた。
「おとよ、お前どうかしたのかい、たいへん顔色が悪い」
「ええどうもしやしません」
「そうかい、そんならえいけど」
 母は入れた茶を夫のと娘のと自分のと三つの茶碗《ちゃわん》についで配り、座についてその話を聞こうとしている。
「おとよ、ほかの事ではないがの、お前の縁談の事についてはずれの旦那《だんな》が来てくれて今帰られたところだ。お前も知ってるだろう、早船の斎藤《さいとう》よ、あの人にはお前も一度ぐらい逢った事があろう、お互いに何もかも知れきってる間だから、誠《まこと》に苦《く》なしだ。この月初めから話があっての、向うで言うにゃの、おとよさんの事はよく知ってる、ただおとよさんが得心《とくしん》して来てくれさえすれば、来た日からでも身上《しんしょう》の賄《まかな》いもしてもらいたいっての、それは執心な懇望よ、向うは三度目だけれどお前も二度目だからそりゃ仕方がない。三度目でも子供がないから初縁も同じだ。一度あんな所へやってお前にも気の毒であったから、今度は判《わか》ってるが念のために一応調べた。負債などは少しもない、地所はうちの倍ある。一度は村長までした人だし、まあお前の婿にして申し分のないつもりじゃ。お前はあそこへゆけばこの上ない仕合せとおれは思うのだ。それでもう家じゅう異存はなし、今はお前の挨拶《あいさつ》一つできまるのだ。はずれの旦那はもうちゃんときまったようなつもりで帰られた。おとよ、よもやお前に異存はあるまいの」
 おとよは人形のようになってだまってる。
「おとよ、異存はねいだの。なに結構至極《けっこうしごく》な所だからきめてしまってもよいと思ったけど、お
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