ある、今度ようやく二人がこうと思えば、すぐにわたしの縁談、わたしは身も世もあらぬ思い、生きた心はありません。
けれども省様、この上どのような事があろうとわたしの覚悟は動きませぬ。体はよし手と足と一つ一つにちぎりとらるるともわたしの心はあなたを離れませぬ。
こうは覚悟していますものの、いよいよ二人一緒になるまでには、どんな艱難《かんなん》を見ることか判《わか》りませぬ。何とぞわたしの胸の中を察してくださいませ。常にも似ず愚痴ばかり申し上げ失礼いたし候《そうろう》。こんな事申し上ぐるにも心は慰み申し候。それでも省さまという人のあるわたし、決して不仕合せとは思いませぬ」
種まきの仕度で世間は忙しい。枝垂柳《しだれやなぎ》もほんのり青みが見えるようになった。彼岸桜《ひがんざくら》の咲くとか咲かぬという事が話の問題になる頃は、都でも田舎《いなか》でも、人の心の最も浮き立つ季節である。
某《なにがし》の家では親が婿を追い出したら、娘は婿について家を出てしまった、人が仲裁して親はかえすというに今度は婿の方で帰らぬというとか、某の娘は他国から稼《かせ》ぎに来てる男と馴《な》れ合って逃げ出す所を村界《むらざかい》で兄に抑《おさ》えられたとか、小さな村に話の種が二つもできたので、もとより浮気ならぬ省作おとよの恋話も、新しい話に入りかわってしまった。
六
珊瑚樹垣《さんごじゅがき》の根には蕗《ふき》の薹《とう》が無邪気に伸びて花を咲きかけている。外の小川にはところどころ隈取《くまど》りを作って芹生《せりふ》が水の流れを狭《せば》めている。燕《つばめ》の夫婦が一つがい何か頻《しき》りと語らいつつ苗代《なわしろ》の上を飛《と》び廻《まわ》っている。かぎろいの春の光、見るから暖かき田圃《たんぼ》のおちこち、二人三人組をなして耕すもの幾組、麦冊《むぎさく》をきるもの菜種に肥《こえ》を注ぐもの、田園ようやく多事の時である。近き畑の桃の花、垣根の端の梨《なし》の花、昨夜の風に散ったものか、苗代の囲《まわ》りには花びらの小紋が浮いている。行儀よく作られた苗坪ははや一寸ばかりの厚みに緑を盛り上げている。燕の夫婦はいつしか二つがいになった、時々緑の短冊に腹を擦《す》って飛ぶは何のためか。心|長閑《のどか》にこの春光に向かわば、詩人ならざるもしばらく世俗の紛紜《ふんうん》を忘れう
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