は、ほとんど狂《きょう》せんばかりに悲嘆したことを僕は知っている。それにもかかわらず一度異境に旅寝しては意外に平気で遊んでいる。さらばといって、君に熱烈なある野心があるとも思えない。ときどきの消息に、帰国ののちは山中に閑居《かんきょ》するとか、朝鮮で農業をやろうとか、そういうところをみれば、君に妻子を忘れるほどのある熱心があるとはみえない。
 こういうと君はまたきっと、「いやしくも男子たるものがそう妻子に恋々としていられるか」というだろう。そこだ、僕のわからぬというのは。境遇の差があまりにはなはだしいというのもそこだ。
 僕の今を率直にいえば、妻子が生命の大部分だ。野心も功名もむしろ心外いっさいの欲望も生命がどうかこうかあってのうえという固定的感念に支配されているのだ。僕の生命からしばらくなりとも妻や子を剥《は》ぎ取っておくならば、僕はもう物の役に立たないものになるに違いないと思われるのだ。そりゃあまり平凡じゃと君はいうかもしれねど、実際そうなのだからしかたがない。年なお若い君が妻などに頓着《とんちゃく》なく、五十に近い僕が妻に執着するというのはよほどおかしい話である。しかしここがお互
前へ 次へ
全36ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
伊藤 左千夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング