潔純正をよろこび、高い理想の文芸を味おうてる身で、生活上からは凡人も卑《いや》しとする陋劣《ろうれつ》な行動もせねばならぬ。八人の女の子はいつかは相当に婚嫁《こんか》させねばならぬ。それぞれ一人前の女らしく婚嫁させることの容易ならぬはいうまでもない。この重い重い責任を思うと五体もすくむような心持ちがする。しかるにもかかわらず、持って生まれた趣味性の嗜好《しこう》は、君も知るごとく僕にはどうしても無趣味な居住はできないのだ。恋する人は、理の許す許さぬにかかわらず、物のあるなしにかかわらず恋をする。理が許さぬから物がないからとて忍ぶことのできる恋ならば、それは真の恋ではなかろう。恋の悲しみもそこにある。恋の真味もそこにある。僕の嗜好《しこう》もそれと同じであるから苦しいのだ。嗜好に熱があるだけ苦しみも深い。
 友人の借銭もじゅうぶんに消却し得ず、八人の子のしまつも安心されない間で、なおときどき無要なもの好きをするのがそれだ。
 この徹頭徹尾《てっとうてつび》矛盾した僕の行為が、常に僕を不断の悔恨と懊悩とに苦しめるのだ。もっとも僕の今の境遇はちょうど不治の病いにわずらっている人のごとくで、平生苦悩の絶ゆるときがないから、何か他にそれをまぎらわすべき興味的刺激がなければ生存にたえないという自然の要求もあるだろう。
 矛盾混乱なにひとつ思うようにならず、つねに無限の懊悩に苦しみながらも、どうにか精神的の死滅をまぬかれて、なお奮闘《ふんとう》の勇を食い得るのは、強烈な嗜好が、他より何物にも犯されない心苑《しんえん》を闢《ひら》いて、いささかながら自己の天地がそこにあるからであるとみておいてもらいたい。
 自分で自分のする悲劇を観察し批判し、われとわが人生の崎嶇《きく》を味わいみるのも、また一種の慰藉にならぬでもない。
 それだけ負け惜しみが強ければ、まァ当分死ぬ気づかいもないと思っておってくれたまえ。元来人間は生きたい生きたいの悶躁《もんそう》でばかり動いている。そうしてどうかこうか生を寄するの地をつくっているものだ。ただ形骸《けいがい》なお存しているのに、精神早く死滅しているというようなことにはなりたくない。愚痴《ぐち》はこれくらいでやめるが、僕の去年は、ただ貧乏に苦しめられたばかりではなかった。

        三

 矛盾《むじゅん》した二つのことが、平気で並行されると
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