いうことは、よほど理屈にはずれた話だけれど、僕のところなどではそれがしじゅう事実として行なわれている。
 ある朝であった。妻は少し先に起きた。三つになるのがふとんの外へのし出て眠っているのを、引きもどして小枕を直しやりながら、
「ねいあなた、まだ起きないですか」
「ウム起きる、どうしたんだ」
 見れば床にすわりこんで、浮かぬ顔をしていた妻は、子どもの寝顔に目をとめ、かすかに笑いながら、
「まァかわいい顔して寝てる、こうしているのを見ればちっとも憎くないけど……」
 ちっとも憎くないけどの一語は僕の耳には烈《はげ》しい目ざましになった。妻はふたたび浮かぬ顔に帰ってうつぶせになにものかを見ている僕は夜具をはねのけた。
「ねいあなた、わたしの体《からだ》はまたへんですよ」
 僕は、ウムと答える元気もなかった。妻もそれきり一語もなかった。ふたりとも起《た》って夜具はずんずん片づけられる。あらたなるできごとをさとって、烈しく胸に響いた。話しするのもいやな震動は、互いに話さなくとも互いにわかっている。心理状態も互いに顔色でもうわかってる。妻は八人目を懐胎《かいたい》したのだ。
「ほんとに困ったものねい」
 と、いうような言葉は、五人目ぐらいの時から番ごと繰り返されぬいた言葉なのだ。それでもこの寝ているやつのときまでは、
「もうかい……」
「はァ……」
 くらいな言葉と同時に、さびしいようなぬるいような笑いを夫婦が交換したものだ。
「えいわ、人間が子どももできないようになれば、おしまいじゃないか」
 こんなつけ元気でもとかくさびしさをまぎらわし得たものだ。
 けさのふたりは愚痴をいう元気がないのだ。その事件に話を触れるのが苦痛なのだ。人が聞いたらばかばかしいきわみな話だろうが、現にある事実なのだ。しかも前夜僕は、来客との話の調子で大いに子ども自慢をしておったのだから滑稽《こっけい》じゃないか。
 子を育てないやつは社会のやっかい者だ。社会の恩知らずだ。僕らのようにたくさんの子を育てる者に対して、国家が知らぬふうをしているという法はない。子どもを育てないやつが横着《おうちゃく》の仕得《しどく》をしてるという法もない。これはどうしても国家が育児に関する何らかの制度を設けて、この不公平を矯《た》めるのが当然だ。第二の社会に自分の後継者を残すのは現社会の人の責任だ。だから子を育てないやつ
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