らないといってよい。
一望千里、波浪と岩礁のみの荒磯も、その海底は千変万化で、海流に洗われて深く、浅くさまざまな現象を持っている、そこへ四季の魚が寄り、石ダイやブダイは同じ所に生棲し、鮑やその他の貝や、ウツボや海蛇と共に生活しているのであるから、理科学的に調査したら、恐らく凄じいものがあるだろう。その小さい科学的な知識を前提として、私達の磯釣は成立するのである。
その第一は陸の生活と遠離の感で、まるでロビンソン・クルーソーになった気持である。第二は陸と海の境界線に立って、自分も同じ生物として生きている孤独感で、いかにして魚を釣るかという喜悦と祈願に似た感情である。第三はいざ目的の大魚がかかって、これを逸すかせしめるかの闘争的快楽である。この第三の健康的な挑むような、張切った感じがうれしくって、波浪も岩壁も物かは、危険を犯してまでも目的の魚のいるところまで往くのである。
もしその場合、四百目以上七八百目から一貫目もある魚に出逢って見給え、引き上げるか、引き込まれるか喰うか喰われるかの境地まで行くと、そのスリルたるや何物にも勝るものがある、まして竿が満月になり、魚の引きの強さに、よろめきつつ岩にしがみついて仕止めるまで、或は糸を切られて逸してしまった拍子ぬけの気持等、到底筆紙には尽し難いものがある。こうして一日波浪のピアノの音、天空と海の広い襞の中に遊んでいると、頭も身体も生気に満ちて、実際に生きている喜悦と歓喜に戦くようなことがある。
殊に二日、三日となると、磯に馴れ、石ころと岩の道も苦にならなくなって、原始人のような感覚になってくる、魚のあたり、その日の調子というものが解ってくる、海にも二三度落ちる、脛も怪我する、潮と風の工合もよく解ってくるとなると、自分というものが、いつの間にかその大きい自然の原理と一つになって生きていることを知る、そして殺伐な気分というものも常識になって、新鮮無類な魚族の七色の光に眩惑されるようになり、野人のような食欲さえ湧いてくるのである。それは少しく誇張であるとしても、この忙しい世界にいて、こうして釣っていられるのだけでも有難く、こよなき法悦がやって来るのである。
友人とゆくなら二人で、もし妻君を伴えば岩蔭に待たして、釣った魚を焼いて食事するとか、いろいろの方法もある。更に疲れたら岩に眠る、川では風邪を引くが、海では絶対といってい
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