は無類である。水平線と、浪と雲、岩とそして自分と魚だけで、竿を振り、餌を流し、獲物を狙う。眼も頭も凡て海と一致しているのである。岩をとび歩いても、海草や貝類を見ても、もう決して陸上の人間のような感じは持たない。海は生きている、海草も貝も生きている。まして釣は猶更のこと、その神秘な自然の深みへ没入して、初めて溌剌たる魚を引掛け得るのだ。そして強引に争い、水面をぬいて獲物とするまでには、時に魚の鰭で手に血を流し、転んだり、跪いたり、思わぬ怪我をしても、潮で洗えばすぐ癒るような野蛮さにある。
 長竿を揮って、怒濤の巌上に立つ気持というものは恐らく太古の感情そのままである。もう自分の背後にある陸の生活のことなぞは考えない、又考えたらそんな冒険的な行為が恐ろしくなるが、只この健康、この荒ぶる感情、その行動というものが、得も云われず一種の壮快さを齎《もた》らすのだ。たった一人で半日も釣っていると、浪の音と風で耳が遠くなる、よく岩礁の蔭で幻聴を感じ、何か囁くような、訴えるような、ふしぎな海の笛をきく、そして燦爛と輝く荒磯の魚を足に踏まえ、太陽を額にして、ひとり食事なぞをしていると、もう私達は未開人と一歩の差である。そして陸への郷愁といったものに憑れ、淋しい漁村や、遠くの空が、妙にかなしく懐しくさえ思われてくる。
 波静かな日、小舟を出して、そういう荒磯の底を覗くと、魚の生態というものがよく解る。私は小笠原の母島から父島へかけて、三週間ばかり磯釣をした時に、透明度の高い海底をよく覗いて、三十二種の珍らしい魚を釣ったが、珊瑚礁に附いている魚は、実に静かで、まるで水中の牧場のようである。紫の魚、青と紅の魚、縞のあるもの、褐色のもの、青黒きもの、凡て三寸のものから、一尺もあるものは、多く同じ形態と仲間と伍して遊戈し、往ったり来たりしていた。それが一尺以上の魚になると単独で、悠々とやって来たり、又矢のようにどこかへ突進してゆく。こうして荒磯の魚の生態を上から覗いていると、天然の水族館のようで興味はあるが、いざ釣となると、魚はその本性に還って、より競争的に餌を求める。釣友大久保鯛生君は八丈島から伊豆の荒磯に潜水し、よく魚の習性を研究しているが、特にクロダイの鋭敏な生態は、殆ど神秘以上だといっている。そうなると都会の一室でホルマリン漬の魚を解剖しているだけでは、釣れる魚の生存形態なぞは本当に解
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