て、左舷《さげん》はがっくりと水に頭をひたした。
「だめだ」
黒少年モコウはあわただしくさけんだ。それと同時に船首《せんしゅ》のほうに立った仏国少年バクスターの口から、大きなさけびがおこった。
「しめたッ」
だめという声と、しめたという声! 人々はなんのことだかわからなかった。
「ボートがあるよ」
バクスターはふたたびさけんだ。
「ボート?」
少年たちの眼は急にいきかえった。かれらは一度に船首に走った。
「あれ! あれだ」
いかにもバクスターのいうごとく、海水にあらいさられたと思った一せきのボートは、みよしのささえ柱のあいだにやっとはさまってぶらさがっていた。
「もうしめたぞ」
いままで沈黙《ちんもく》していたドノバンは、まっさきにボートのほうへ走った。イルコック、ウエップ、グロースの三人はそれにつづいた。四人はえいえい声をあわしてボートを海上におろそうとした。
「それをどうするつもりか」
と富士男は声をかけた。
「何をしたっていいじゃないか」
とドノバンはふたたびけんかごしにいった。
「きみらはボートをおろすつもりなのか」
「そうだ、だがそれをとめる権利《けんり》はきみにないはずだ」
「とめやしないが、ボートをおろすのはかってだが、きみらだけ上陸して、ほかの少年をすてる気ではあるまいね」
「むろんすてやしないよ、ぼくらが上陸してからだれかひとり、ボートをここへこぎもどして、つぎの人を運《はこ》ぶつもりだ」
「それならまず第一に、いちばん年の少ない人たちから上陸さしてくれたまえ」
「それまでは干渉《かんしょう》されたくないよ、小さい人たちを上陸さしたのでは役にたたない、まずぼくが先にいって陸地を探検《たんけん》する」
「それはあまりに利己主義《りこしゅぎ》だ、おさない人たちを先に救うのは、人道《じんどう》じゃないか」
「人道とはなんだ」
ドノバンはかっとなってつめよった。へいそなにごともドノバンにゆずっている富士男も、ドノバンの幼年者に対する無慈悲《むじひ》な挙動《きょどう》を見ると、心の底から憤怒《ふんぬ》のほのおがもえあがった。
「きみはぼくのいうところがわからんのか」
富士男はしっかりと腰《こし》をすえて、ドノバンが手を出すが最後、電光石火に、甲板《かんぱん》の上にたたきのめしてやろうと身がまえた。
「待ってくれ待ってくれ、ドノバン、きみは悪いぞ、ボートは幼年者のものだ、年長者はいかなるばあいにも、年少者のぎせいにならねばならぬとは、昔からの紳士道《しんしどう》じゃないか」
ゴルドンはこういって、ドノバンを制《せい》した。そうして富士男を片すみにひいてゆきながらささやいた。
「きみ、ボートは危険《きけん》だ、あれを見たまえ、潮《しお》はひいたが暗礁《あんしょう》だらけだ、あれにかかるとボートはこなみじんになってしまうぞ」
「そうだ」
富士男はがっかりしていった。
「このうえはただ一つの策《さく》があるばかりだ」
「どうすればいいか」
ゴルドンは心配そうに富士男の顔をみつめた。
「だれかひとり、綱《つな》を持ってむこうの岸へ泳ぎつき、船と岸の岩に綱を張り渡すんだ、それから、年長者は一人ずつ幼年者をだいて、片手に綱をたどりながら岸へ泳ぎつくんだ」
「なるほど、それよりほかに方法がないね」
「では、そういうことにきめるか」
「だが、だれが第一番に綱を持って、むこうへ泳ぎつくか」
「むろんぼくだ」
富士男は快然《かいぜん》として自分の胸をたたいた。
「きみが?」
ゴルドンの眼はきらきらとかがやいたが、やがて熱《あつ》い涙がぼとぼととこぼれた。
「ドノバンは幼年者からボートを取ろうという、きみは幼年者のためにいちばんむずかしい役をひきうけようという、ぼくははじめて日本少年の偉大《いだい》さを知ったよ」
「このくらいのことは、ぼくの国の少年は、ふつうになっているんだ、そんなことはとにかくとして、綱の用意をしてくれたまえ」
富士男は上着《うわぎ》をするするとぬいだ。
探検《たんけん》
いまこの南太平洋を漂流《ひょうりゅう》しつつある少年たちをもっとくわしく読者に紹介《しょうかい》したいと思う。
諸君は世界の地図をひらくと、ずっと下のほうに、胃袋《いぶくろ》のような形をした、大きな島を見ることであろう、これはオーストラリアである。この島から右方のすこし下のほうに、ちょうど日本の形ににた島を見るであろう、これはニュージーランド島である。この島から西方に、無数の小さな島がまめのごとくちらばっている、この群島《ぐんとう》は、南緯《なんい》三十四度から、四十五度のあいだにあるもので、北半球でいえば、ちょうど、日本やフランスと同じていどの位置《いち》である。
少年連盟《しょうねんれんめい》が風雨と戦いつつあるところは、すなわちこの群島の圏内《けんない》である。このへんの正月は日本の七月ごろに相当する、かれらはことごとくニュージーランドに住む商人や官吏《かんり》の子である。ニュージーランドの首府《しゅふ》オークランド市に、チェイマン学校という学校がある。この学校は寄宿制度《きしゅくせいど》であって、幼年から少年までを収容《しゅうよう》して、健全剛毅《けんぜんごうき》なる教育をほどこすのである。
されば全校の気風は勇気にとみ、また慈愛《じあい》と友情にあつく、年長者は年少者を、弟のごとく保護《ほご》し、年少者はまた、年長者を兄のごとく尊敬《そんけい》する。
がんらいこの一帯は英国の領地《りょうち》であるが、群島のうちには、仏領《ふつりょう》もあり米領《べいりょう》もある。日本はこのうちの一島をも有せぬ、しかし進取《しんしゅ》の気にとむ日本人は、けっしてこの島をみのがすようなことはなかった。商人はどしどし貿易《ぼうえき》の途《みち》をひらく、学者工業家漁業家も、日本からゆくものしだいに増加しつつある。
大和富士男と次郎の父は、日本から招聘《しょうへい》せられた工学者で、この島へきてからもはや、二十年の月日はすぎた、かれは温厚《おんこう》のひとでかつ義侠心《ぎきょうしん》が強いところから、日本を代表する名誉《めいよ》の紳士《しんし》として、一般の尊敬《そんけい》をうけている。その子の富士男はことし十五歳、学校はいつも優等《ゆうとう》であるうえに、活発《かっぱつ》で明るく、年少者に対してはとくに慈愛《じあい》が深いところから、全校生徒が心服《しんぷく》している。弟の次郎はやっと十歳で、こっけいなことといたずらがすきであるが、船が本土をはなれてから急にだまりこんで、ちがった人のようになった。
このふたりの兄弟を主人として、忠実につかえているのは、モコウという黒人の子である。モコウは両親もなき孤児《こじ》で船のコックになったり、労役《ろうえき》の奴隷《どれい》になったりしていたが、富士男の父に救われてから幸福な月日をおくっている。
ところが人心《じんしん》はその面のごとし、十人よれば十人ともその心が同一でない、同じ友だちのドノバンは、なにからなにまで、富士男に反対であった。日本のことばにアマノジャクというのがある、他人が白といえば黒といったり、他人が右へいこうというと、イヤぼくは左へゆくといったり、いつも他人に反対して、自分のわがままをつらぬこうとする。ドノバンはいわゆるアマノジャクで、そのごうまんな米国ふうの気質《きしつ》から、いつも富士男を圧迫《あっぱく》して自分が連盟の大将《たいしょう》になろうとするくせがある。富士男が一同に尊敬せらるるのを見ると、かれは嫉妬《しっと》にたえられぬのであった。
このいとうべき性癖《せいへき》があるドノバンに、なにからなにまで敬服しているのは、そのいとこのグロースであった。グロースはなんでも他人に感服するくせがある。かれには自分の考えというものはなく、ただドノバンのいうがままにしたがうのである。
この三人は同年で十五歳だが、いま一人、十六歳の少年ゴルドンがある、かれは英国人の子で、幼にして両親にわかれ、いまでは他人の手にそだてられているが、天稟《てんぴん》の正直と温和で謙遜《けんそん》で冷静《れいせい》な点において、なんぴとからも尊敬せられ、とくに富士男とは親しいあいだがらである。
その他の少年をいちいち紹介《しょうかい》するために、国籍《こくせき》と年齢《ねんれい》を左に略記《りゃっき》する。
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日本 大和富士男(一五) 同弟次郎(一〇)
アメリカ ドノバン(一五) グロース(一五)
イギリス ゴルドン(一六)
フランス ガーネット(一四) サービス(一四) バクスター(一四)
ドイツ ウエップ(一四) イルコック(一五)
イタリア ドール(一〇) コスター(一〇)
シナ 善金《ゼンキン》(一一) 伊孫《イーソン》(一一)
インド モコウ(一四)
猟犬《りょうけん》 フハン
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船の名はサクラ号である。それは、富士男の父の所有する、スクーナーと称《しょう》する帆船《はんせん》で、この団体は夏期休暇を利用して、近海航行についたのが暴風雨《ぼうふうう》になやまされて、東へ東へと流されたのであった。
サクラ号がゆくえ知れなくなったとき、一行の父兄たちは、死に物ぐるいになって捜索《そうさく》をはじめたが、なんの手がかりもえなかった。一ヵ月後にサクラ号としるした船尾《せんび》の板が、ある海岸に漂着《ひょうちゃく》したので、父兄たちはもう捜索の絶望《ぜつぼう》を感じた。
市《まち》の人々は、涙ながらに少年たちの追善《ついぜん》をやっているとき、富士男はサクラ号のふなばたに立って、きっと泡《あわ》だつ怒濤《どとう》をみつめていた。
平和な海面なら、綱を持って対岸《たいがん》まで泳ぎつくことは、至難《しなん》でない、だが嵐《あらし》のあとの海は、まだ獰悪《どうあく》である。幾千とも知れぬ大岩小岩につきあたる波は、十|丈《じょう》の高さまでおどりあがっては、瀑《たき》のごとく落下し、すさまじい白い泡と音響《おんきょう》をたてて、くだけてはちり、ちってはよせる。
おそろしい怒濤《どとう》の力! もしそれにひかれて岩角にたたきつけられたら、富士男のからだはこっぱみじんになる。
「兄さん、いっちゃいけない」
と次郎は兄のそばへ走ってさけんだ。
「いいよ、心配すな、次郎!」
富士男はわざと微笑《びしょう》をむけて、弟の頭をなでた。
「だいじょうぶかえ」
とゴルドンはいった。
「やるよりしようがない、これが最善《さいぜん》の道だと考えた以上は、死んでもやらなきゃならない」
「しかし……」
「ゴルドン、安心してくれたまえ、ぼくは父からきいたが、日本のことわざに、『義を見てなさざるは勇なきなり』というのがあるそうだ」
富士男は綱をくるくるとからだにまきつけた。
「よしッ、いってくれ」
とゴルドンはいった、その声がおわらぬうちに、富士男はざんぶと水におどりこんだ。
「やった!」
一同はふなばたに立って、富士男のすがたをみつめた、富士男はみごとに抜き手をきって泳ぎだした。
「だいじょうぶ? ゴルドン?」
と次郎はまっさおになってきいた。
「ああたぶん……」
ゴルドンは富士男のすがたからすこしも眼をはなさずにいった。そうして綱をするすると送りだした。だがかれはこのとき思わず「あっ」と声をあげた。
いましも富士男の行く手に、むくむくとふくれあがった、巨大《きょだい》な波が見えた、風は引き潮とあいうって、巨大な波のうしろに、より巨大な波がおそいかけている。しかもそれは、岩と岩のあいだを通ってくるはげしき波とつきあたるが最期《さいご》、そこに大きな波のくぼみができるにそういない、それにひきこまれたら、鉄のからだでもたまったものでない。
「気をつけい!」
ゴルドンは声をかぎりにさけんだ、だがその声は、すぐおどろきの叫喚《きょうかん》にかわった。
「やられたッ」
いかにも富士男のからだは
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