、義侠《ぎきょう》の血をうけた富士男の意気《いき》は、りんぜんとして五体にみちた。かれは面《おもて》もふらずまっすぐに、甲板の上をつたいつたい船首のほうへ走った。
「モコウ! モコウ!」
返事がない。
「モコウ! モコウ!」
声はしだいに涙をおびた。とかすかなうなり声がふたたびきこえた。
「モコウ!」
富士男は声をたよりに巻《ま》きろくろとみよしのあいだにあゆみよった。
「モコウ!」
一度きこえたうなり声はふたたびきこえなくなった。
「モコウ!」
声のかぎりさけびつづけてみよしへ進まんとした一せつな、かれはなにものかにつまずいて、あやうくふみとどまった。
「ううううう」
つまずかれたのは、モコウのからだであった。
「モコウ! どうした」
富士男は喜びのあまりだきついた。モコウは巨濤《おおなみ》にうちたおされたひょうしに、帆綱《ほづな》[#ルビの「ほづな」は底本では「ほずな」]にのどをしめられたのであった、かれはそれをはずそうともがくたびに、船の動揺《どうよう》につれて、綱がますますきつく[#「きつく」に傍点]ひきしまるので、いまはまったく呼吸《いき》もたえだえになっていた。
「待て待て」
富士男はナイフを出して帆綱《ほづな》を切った。
「ああ、ありがとう」
モコウは富士男の手をかたくにぎったが、あとは感謝《かんしゃ》の涙にむせんだ。
ふたりはハンドルの下に帰った、だが嵐《あらし》はいつやむであろうか。
南半球の三月は北半球の九月である。夜が明けるのは五時ごろになる。
「夜が明けたらなんとかなるだろう」
少年たちの希望はただこれである、荒れに荒れくるう黒暗々《こくあんあん》の東のほうに、やがて一|曳《えい》の微明《びめい》がただよいだした。
「おう、夜が明けた」
一同が歓喜《かんき》の声をあげた。あかつきの色はしだいに青白くなり、ばら色になり、雲のすきますきまが明るくなると、はやてに吹きとばされるちぎれ雲は、矢よりもはやく見える。
だが第二の失望《しつぼう》がきた。夜は明けたが濃霧《のうむ》が煙幕《えんまく》のごとくとざして、一寸先も見えない、むろん陸地の影など、見分くべくもない。しかもいぜんとして風はやまぬ。
四人の少年はぼうぜんとして甲板《かんぱん》に立った。かれらはいよいよ絶望《ぜつぼう》の期がせまったと自覚《じかく》した。
そのときモコウは大きな声でさけんだ。
「陸だ! 陸だ!」
「何をいうかモコウ」とドノバンは笑った。じっさい、べきべきたる濃霧《のうむ》の白《はく》一|白《ぱく》よりほかは、なにものも見えないのである。
「モコウ、きみの気のせいだよ」
「いやいや」
とモコウは頭をふって、東のほうを指《ゆび》さした。
「陸です、たしかに」
「君の眼はどうかしてるよ」
「いや、ドノバン、霧《きり》が風に吹かれてすこしうすくなったとき、みよしのすこし左のほうをごらんなさい」
このとき煙霧《えんむ》は風につれて、しだいしだいに動きだした。綿のごとくやわらかにふわふわしたもの、ひとかたまりになって地図のごとくのびてゆくもの、こきものは淡墨《うすずみ》となり、うすきものは白絹《しらぎぬ》となり、疾《と》きものはせつなの光となり、ゆるきものは雲の尾にまぎれる、巻々舒々《かんかんじょじょ》、あるいは合《がっ》し、あるいははなれ、呼吸《いき》がつまりそうな霧のしぶきとなり、白紗《はくさ》のとばりに夢のなかをゆく夢のまた夢のような気持ちになる。
霧が雨になり、雨が霧になり、雨と霧が交互《こうご》にたわむれて半天にかけまわれば、その下におどる白泡《しらあわ》の狂瀾《きょうらん》がしだいしだいに青みにかえって、船は白と青とのあいだを一直線にすすむ。
「おう、陸だ」
富士男はさけんだ。見よ、煙霧の尾が海をはなるる切れ目の一せつなに、東の光をうけてこうごうしくかがやける水平線上の陸影《りくえい》! 長さ約八キロもあろう。
「陸だ! 陸だ!」
声は全船にあふれた。
「ラスト・ヘビーだ!」
船はまっすぐに陸をのぞんで走った。
近づくままに熟視《じゅくし》すると、岸には百|丈《じょう》の岩壁《がんぺき》そばだち、その前面には黄色な砂地がそうて右方に彎曲《わんきょく》している、そこには樹木がこんもりとしげって、暴風雨のあとの快晴の光をあびている。富士男は甲板《かんぱん》の上からしさいに観察して、いかりをおろすべきところがあるやいなやを考えた。だが岸には港湾らしきものはない、なおその上に砂地の付近には、のこぎりの歯のような岩礁《がんしょう》がところどころに崛起《くっき》して、おしよせる波にものすごい泡《あわ》をとばしている。
富士男はそこで、船室にひそんでいた十一人の少年たちを、甲板《かんぱん》に集めることにした。
「おい、みんなこいよ」
少年たちはおどりあがって喜んだ。まっさきにのぼってきたのは猟犬《りょうけん》フハンである。そのつぎには富士男の弟次郎、それから支那《しな》少年|善金《ゼンキン》と伊孫《イーソン》、イタリア少年ドールとコスターの十歳組、そのつぎにはフランス少年ガーネットとサービス、そのつぎにはドイツ少年ウエップとイルコック、おわりに米国少年グロースがのぼってきた。かれらはいちように手をあげて万歳《ばんざい》をとなえた。
午前六時、船はしずかに岸辺についた。
「気をつけろよ、岩が多いから乗りあげるかもしらん、そのときにあわてないように、浮き袋をしっかりとからだにつけていたまえ」
富士男は人々に注意した。するすると船は進んだ、とつぜんかすかな音を船底《せんてい》に感じた。
「しまった!」
船ははたして暗礁《あんしょう》に乗り上げたのであった。
「モコウ、どうした」
「乗りあげましたが、たいしたことはありません」
じっさいそれは不幸中のさいわいであった、船は暗礁《あんしょう》の上にすわったので、外部には少しぐらいの損傷《そんしょう》があったが、浸水《しんすい》するほどの損害《そんがい》はなかった、だが動かなくなった船をどうするか。
船はなぎさまではまだ三百二、三十メートルほどもある、ボートはすべて波にさらわれてしまったので、岸へわたるには、ただ泳いでゆくよりほかに方法がない、このうち二、三人は泳げるとしても、十歳や十一歳の幼年をどうするか。
富士男はとほうにくれて、甲板《かんぱん》をゆきつもどりつ思案《しあん》にふけっていた。とこのときかれはドノバンが大きな声で何かののしっているのをきいた。なにごとだろうと富士男はそのほうにあゆみよると、ドノバンはまっかな顔をしてどなっていた。
「船をもっと出そうじゃないか」
「乗りあげたのだから出ません」
とモコウはいった。
「みんなで出るようにしようじゃないか」
「それはだめです」
「それじゃここから泳いでゆくことにしよう」
「賛成《さんせい》賛成」
他の二、三人が賛成した。もう海上を長いあいだ漂流《ひょうりゅう》し、暴風雨《ぼうふうう》と戦って根気《こんき》もつきはてた少年どもは、いま眼前に陸地を見ると、もういても立ってもいられない。
「泳いでゆこう」
とドイツのイルコックがいった。
「ゆこうゆこう」
「待ってくれたまえ」と富士男は、少年どもの中へわってはいった。
「そんな無謀《むぼう》なことをしてもしものことがあったらどうするか」
「だいじょうぶだ、ぼくは三キロぐらいは平気《へいき》だから」とドノバンがいった。
「きみはだいじょうぶでも、ほかの人たちはそうはいかんよ、君にしたところでたいせつなからだだ、つまらない冒険《ぼうけん》はおたがいにつつしもうじゃないか」
「だが、向こうへ泳ぐくらいは冒険《ぼうけん》じゃないよ」
「ドノバン! きみにはご両親がある、祖国がある、自重《じちょう》してくれたまえ」
「だがこのままにしたところで、船はだんだんかたむくばかりじゃないか、だまって沈没《ちんぼつ》を待つのか」
「そうじゃないよ、いますこしたてば干潮《かんちょう》になる、潮が引けばあるいはこのへんが浅くなり、徒歩《とほ》で岸までゆけるかもしらん、それまで待つことにしようじゃないか」
「潮《しお》が引かなかったらどうするか」
「そのときには別に考えることにしよう」
「そんな気の長い話はいやだ」
ドノバンはおそろしいけんまくで、富士男の説に反対した。がんらいドノバンはいかなるばあいにおいても、自分が第一人者になろうという、アメリカ人特有のごうまんな気性《きしょう》がある。かれはこのために、これまで富士男と衝突《しょうとつ》したのは、一、二度でなかった、そのたびごとにドノバンのしりおしをするのは、イルコック、ウエップのふたりのドイツ少年と、米国少年グロースであった。
かれらは航海のことについては、富士男やゴルドンほどの知識がなかった。だから海上に漂流《ひょうりゅう》しているあいだは、なにごとも富士男の意見にしたがってきたが、いま陸地を見ると、そろそろ性来《せいらい》のわがままが頭をもたげてきたのである。
かれら四人は、ふんぜんと群《む》れをはなれて甲板《かんぱん》の片すみに立ち、反抗《はんこう》の気勢《きせい》を示そうとした。
「待ってくれたまえドノバン」
と富士男はげんしゅくな声でいった。
「ねえドノバン! きみはぼくを誤解《ごかい》してるんじゃないか、ぼくらは休暇《きゅうか》を利用して近海航行を計画したときに、たがいにちかった第一条は、友愛を主として緩急《かんきゅう》相救《あいすく》い、死生をともにしようというのであった、もしわれわれのなかでひとりで単独行為《たんどくこうい》にいずるがごとき人があったら、それはその人の不幸ばかりでなく、わが少年連盟《しょうねんれんめい》の不幸だ、いまの時代は自己《じこ》一|点張《てんば》りでは生きてゆけない、少年はたがいにひじをとり、かたをならべて、共同戦線に立たねばならぬのだ、ひとりの滅亡《めつぼう》は万人の滅亡だ、ひとりの損害《そんがい》は万人の損害だ、われわれ連盟は日本英国米国ドイツイタリアフランス支那インド、八ヵ国の少年をもって組織《そしき》された世界少年の連盟だ、われわれはけっして私情《しじょう》をはさんではいけない、もしぼくが私情がましき行為《こうい》があったら、どうか断乎《だんこ》として、僕を責《せ》めてくれたまえ、ねえドノバン」
「わかったよ、だがきみは、なにもぼくらの自由を束縛《そくばく》するような、法律をつくる権利がないじゃないか?」
ドノバンはいまいましそうにいった。
「権利とか義務とかいうのじゃないよ、ただぼくは、共同の安全のためには、おたがいに分離《ぶんり》せぬように心を一にする必要があるというだけだ」
「そうだ、富士男の説は正しい」
と、へいそ温厚《おんこう》な英国少年ゴルドンがいった。
「そうだそうだ」
幼年どもはいっせいにゴルドンに賛成した。
「ねえきみ、気持ちを悪くしてくれるなよ」
富士男はドノバンにいった、ドノバンは、それに答えなかった。
そもそもこの陸は大陸のつづきであるか、ただしは島であるか、第一に考えなければならないのは、この問題である。富士男は北に高い丘をひかえ、岩壁《がんぺき》の下に半月形にひらけた砂原を見やっていった。
「陸には一すじの煙も見えない、ここには人が住んでないと見える」
「人が住まないところに、舟が一そうだってあるものか」
とドノバンは冷笑《れいしょう》した。
「いやそうとはいえまい」とゴルドンは思案顔《しあんがお》に「昨夜の嵐《あらし》におそれて舟が出ないのかもしらんよ」
三人が議論《ぎろん》をしているあいだに、他の少年たちはもう上陸の準備《じゅんび》にとりかかった。固《かた》パン、ビスケット、ほしぶどう、かんづめ、塩《しお》や砂糖、ほし肉、バタの類はそれぞれしばったり、つつんだり、袋《ふくろ》にいれたり、早く潮がひけよとばかり待っていた。七時になった。だがいっこう潮が引かない、そのうえに船はますます左にかたむい
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