少年連盟
佐藤紅緑

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大海原《おおうなばら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|閃《せん》

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(例)※[#「口+它」、第3水準1−14−88]
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     暴風雨

 雲は海をあっし海は雲をける。ぼうぼうたる南太平洋の大海原《おおうなばら》に、もう月もなければ星もない。たけりくるう嵐《あらし》にもまれて黒暗々《こくあんあん》たる波濤《はとう》のなかを、さながら木《こ》の葉のごとくはしりゆく小船がある。時は三月の初旬《しょじゅん》、日本はまだ寒いが、南半球は九月のごとくあたたかい。
 船は一上一下、奈落《ならく》の底にしずむかと思えばまた九天にゆりあげられる、嵐《あらし》はますますふきつのり、雷鳴《らいめい》すさまじくとどろいていなづまは雲をつんざくごとに毒蛇《どくじゃ》の舌のごとくひらめく。この一|閃《せん》々|々《せん》の光の下に、必死《ひっし》となってかじをとりつつある、四人の少年の顔が見える。
 みよしに近く立っているのは、日本の少年|大和富士男《やまとふじお》である。そのつぎにあるは英国少年ゴルドンで、そのつぎは米国少年ドノバンで、最後に帆綱《ほづな》をにぎっているのは、黒人モコウである。
 富士男は十五歳、ゴルドンは十六歳、ドノバンは十五歳、モコウは十四歳である。
 とつぜん大きな波は、黒雲をかすめて百千の猛獣《もうじゅう》の群《む》れのごとく、おしよせてきた。
「きたぞ、気をつけい」
 富士男はさけんだ。
「さあこい、なんでもこい」
 とゴルドンは身がまえた。同時に百トンの二本マストのヨットは、さかしまにあおりたてられた。
「だいじょうぶか、ドノバン」
 富士男は暗《やみ》のなかをすかして見ながらいった。
「だいじょうぶだ」
 ドノバンの声である。
「モコウ! どうした」
「だいじょうぶですぼっちゃん」
 モコウは帆綱《ほづな》にぶらさがりながらいった。
「もうすこしだ、がまんしろ」
 富士男はこういった、だがかれは、じっさいどれだけがまんすれば、この嵐がやむのかが、わからなかった。わからなくても戦《たたか》わねばならぬ、自分ひとりではない、ここに三人がいる、船底《ふなぞこ》にはさらに十一人の少年がいる、同士《どうし》のためにはけっして心配そうな顔を見せてはならぬのだ。
 かれは大きな責任《せきにん》を感ずるとともに、勇気がますます加わった。
 このとき、船室に通ずる階段口のふたがぱっとあいて、二人の少年の顔があらわれた。同時に一頭のいぬがまっさきにとびだしてきた。
「どうしてきた」と富士男は声をかけた。
「富士男君、船がしずむんじゃない?」
 十一、二歳の支那少年|善金《ゼンキン》はおずおずしながらいった。
「だいじょうぶだ、安心して船室にねていたまえ」
「でもなんだかこわい」
 といまひとりの支那《しな》少年|伊孫《イーソン》がいった。
「だまって眼をつぶってねていたまえ、なんでもないんだから」
 このときモコウはさけんだ。
「やあ、大きなやつがきましたぜ」
 というまもなく、船より数十倍もある大きな波が、とものほうをゆすぶってすぎた。ふたりの支那少年は声をたててさけんだ。
「だから船室へかえれというに、きかないのか」
 富士男はしかるようにいった、善金《ゼンキン》と伊孫《イーソン》はふたたび階段のふたの下へひっこんだ、とすぐまたひとりの少年があらわれた。
「富士男君、ぼくにもすこしてつだわしてくれ」
「おうバクスター、心配することはないよ、ここはぼくら四人で十分だから、きみは幼年たちを看護《かんご》してくれたまえ」
 仏国《ふつこく》少年バクスターはだまって階段をおりた。嵐《あらし》は刻《こく》一|刻《こく》にその勢いをたくましゅうした。船の名はサクラ号である。ちょうどさくらの花びらのように船はいま波のしぶきにきえなんとしている。とものマストは二日まえに吹き折られて、その根元《ねもと》だけが四|尺《しゃく》ばかり、甲板《かんぱん》にのこっている、たのむはただ前方のマストだけである、しかもこのマストの運命は眼前《がんぜん》にせまっている。
 海がしずかなときには、ガラスのようにたいらな波上《はじょう》を、いっぱいに帆を張って走るほど、愉快《ゆかい》なものはない。だがへいそに船をたすける帆は、あらしのときにはこれほど有害なものはない、帆にうける風のために船がくつがえるのである。
 だが、十六歳を頭《かしら》にした十五人の少年の力では、帆をまきおろすことはとうていできない。見る見るマストは満帆《まんぱん》の風に吹きたわめられて、その根元は右に動き左に動き、ギイギイとものすごい音をたてる。もしマストが折れたら船には一本のマストもなくなる、このまま手をむなしくして、波濤《はとう》の底にしずむのをまつよりほかはないのだ。
「もう夜が明けないかなあ」
 ドノバンがいった。
「いや、まだです」
 と黒人のモコウがいった。そうして四人は前方《ぜんぽう》を見やった。海はいぜんとしてうるしのごときやみである。
とつぜんおそろしいひびきがおこった。
「たおれたッ」とドノバンがさけんだ。
「マストか?」
「いや、帆が破《やぶ》れたんだ」
 とゴルドンがいった。
「それじゃ帆をそっくり切りとらなきゃいかん、ゴルドン、きみはドノバンといっしょに、ここでハンドルをとってくれたまえ、ぼくは帆を切るから……モコウ! ぼくといっしょにこいよ」
 富士男は、こういって決然《けつぜん》と立った。かれはおさないときから父にしたがって、いくたびか、シドニーとニュージーランドのあいだを航海した。そのごうまいな日本魂《にっぽんだましい》と、強烈《きょうれつ》な研究心は、かれに航海上の大胆《だいたん》と知識《ちしき》をあたえた。十四人の少年が、かれをこのサクラ号の指揮者《しきしゃ》となしたのも、これがためである。モコウはおさないときに船のボーイであったので、これも船のことにはなれている。
 ふたりは前檣《ぜんしょう》の下へきて、その破損《はそん》の個所《かしょ》をあらためてみると、帆は上方のなわが断《き》れているが、下のほうだけがさいわいに、帆桁《ほげた》にむすびついてあった。ふたりは一生けんめいに、上辺《じょうへん》のなわを切りはなした。帆は風にまかせて半空《はんくう》にひるがえった。ふたりはようやくそれをつかんで、下から四、五尺までの高さに帆桁《ほげた》をおろし、帆の上端を甲板《かんぱん》にむすびつけた。これで船は風に対する抵抗力《ていこうりょく》が減《げん》じ、動揺《どうよう》もいくぶんか減ずるようになった。
 ふたりがこの仕事をおわるあいだ、ずいぶん長い時間を要した。大きな波は、いくどもいくどもふたりをおそうた。ふたりは帆綱《ほづな》をしっかりとにぎりながら、危難《きなん》をさけた。
 仕事がおわってふたりはハンドルのところへ帰ると、階段の口があいて、そこからまっ黒な髪《かみ》をして、まるまるとふとった少年の顔があらわれた。それは富士男の弟次郎である。
「次郎、どうしてきた」
 と兄はとがめるようにいった。
「たいへんだたいへんだ、兄さん、水が船室にはいったよ」
「ほんとうか」
 富士男はおどろいて階段をおりた。もし浸水《しんすい》がほんとうなら、この船の運命は五分間でおわるのである。
 船室のまんなかの柱には、ランプが一つかかってある。そのおぼつかないうすい光の下に、十人の少年のすがたをかすかに見ることができる。ひとりは長いすに、ひとりは寝台《しんだい》に、九歳や十歳になる幼年たちは、ただ恐怖《きょうふ》のあまりに、たがいにだきあってふるえている。富士男はそれを見ていっそう勇気を感じた。
「このおさない人たちをどうしても救わなきゃならない」
 かれはこう思って、わざと微笑《びしょう》していった。
「心配することはないよ、もうじき陸だから」
 かれはろうそくをともして室内のすみずみをあらためた、いかにも室内にすこしばかりの水たまりができている、船の動揺《どうよう》につれて水は右にかたむき左にかたむく。だが、それはどこからはいってきたのかは、いっこうにわからない。
「はてな」
 かれは頭をかしげて考えた。するとかれはこのとき、海水にぬれた壁《かべ》のあとをおうて眼をだんだんに上へうつしたとき、水は階段の上の口、すなわち甲板《かんぱん》への出入り口から下へ落ちてきたのだとわかった。
「なんでもないよ」
 富士男は一同に浸水《しんすい》のゆらいを語って安心をあたえ、それからふたたび甲板へ出た。夜はもう一時ごろである。天《そら》はますます黒く、風はますますはげしい。波濤《はとう》の音、船の動く音、そのあいだにきこえるのは海つばめの鳴き声である。
 海つばめの声がきこえたからといって、陸が近いと思うてはならぬ、海つばめはおりおりずいぶん遠くまで遠征《えんせい》することがあるものだ。
 と、またもやごうぜんたる音がして、全船《ぜんせん》が震動《しんどう》した、同時に船は、木の葉のごとく巨濤《きょとう》の穂《ほ》にのせられて、中天《ちゅうてん》にあおられた。たのみになした前檣《ぜんしょう》が二つに折れたのである。帆はずたずたにさけ、落花《らっか》のごとく雲をかすめてちった。
「だめだ」とドノバンはさけんだ。「もうだめだ」
「なあにだいじょうぶだ、帆がなくてもあっても同じことだ、元気で乗りきろう」
 と富士男はいった。
「いいあんばいに追風《おいて》になりました。一直線にゆくことができます」とモコウはいった。
「だが、気をつけろよ、船より波のほうが早いから、うしろからかぶさってくる波にからだをさらわれないように、帆綱《ほづな》にからだをゆわえつけろよ」
 富士男のことばがおわるかおわらないうちに、大山のごとき怒濤《どとう》が、もくもくとおしよせたかと見るまに、どしんと甲板《かんぱん》の上に落ちかかった。同時にライフ・ボート三せき、ボート二せきと羅針盤《らしんばん》をあらいさり、あまる力で船べりをうちくだいた。
「ドノバン、だいじょうぶか?」
 富士男はころびながら友を案《あん》じていった。
「ああだいじょうぶだ。ゴルドン!」
「ここにいるよ、モコウは?」
 モコウの声はない。
「おやッ、モコウは?」
 富士男は立ちなおってさけんだ。
「モコウ! モコウ! モコウ!」
 よべどさけべど、こたうるものは、狂瀾怒濤《きょうらんどとう》のみである。
「波にさらわれた!」
 ゴルドンはふなばたから下を見おろしていった。
「なんにも見えない」
「救《すく》わなきゃならない、浮き袋と縄《なわ》を投げこめよ」と富士男はいった、そうしてまたさけんだ。
「モコウ! モコウ!」
 どこからとなくうなり声がきこえた。
「た、た、助けて!」
「おうモコウ!」
 声はみよしのほうである、みよしは波にへりをくだかれてから、だれもゆくことができなくなった。
「みよしだ、ぼくはゆかなきゃならん」
 富士男はいった。
「あぶないよ」
 とドノバンがいった。
「あぶなくてもゆかなきゃならん」
 モコウは富士男の家につかわれている小僧《こぞう》で、昔ふうにいえば、主従《しゅじゅう》の関係である、だが富士男は、モコウをけっして奴隷的《どれいてき》に見なしたことはない。かれは白皙人《はくせきじん》も黄色人も黒人も、人間はすべて同一の自由と権利《けんり》をもち、おたがいにそれを尊敬《そんけい》せねばならぬと信じている。世界の人種は平等《びょうどう》である、人種によって待遇《たいぐう》を別にしてはならぬ。これはかれが平素その父から教えられたところである。かれはモコウに対しても、いつも親友の愛情をそそいでいる。
 友を救うためには、自己《じこ》の危難《きなん》をかえりみるべきでない
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