次郎が悲痛《ひつう》な声でさけんだ。
危機《きき》
旋風《せんぷう》にあおられたたこは、つりかごを前後左右にかたむけゆりあげて、黒闇々《こくあんあん》のなかを飛んでゆく。はげしい動揺《どうよう》のために富士男は眼のくらむのをおぼえた。かれは必死《ひっし》の思いで綱《つな》をしっかりとにぎった。
「あわててはいけない」
気をしずめるために深くひといきすって、腹にぐんと力をいれた。どうやら心がおちつきをとりもどした。
たこは一上一下して、しだいに地上に落ちてゆくように思えた。
「しめた!」
地上五、六メートルの上からなら、飛びおりても死ぬようなことはない、こう思うとホッと、不安のうちにも助かる希望がわいた。かれは眼を皿のようにして飛びおりる場所を発見しようとあせった。だが、星影まばらな光の下では、かっこうの場所はさがしうべくもない。
「だめかな」
一しゅんにして希望の岡から、失望の底につきおとさるる。ゴルドンの穏和《おんわ》な顔、モコウの白い歯、次郎の悲嘆《ひたん》にくるる顔、そしてなつかしい父母の顔、いろいろの顔が走馬燈《そうまとう》のように明滅《めいめつ》する。かすかに富士男を求めよぶおおぜいの声が、風に送られてきこえる。
「みんなは、悪漢どもが島に滞在《たいざい》していることを知らないのだ。凶悪無残《きょうあくむざん》な海蛇《うみへび》ら! かれらはどんな惨虐《さんぎゃく》な行為を一同の上に加えるだろう、早く告《つ》げなければならない、どうあっても死なれない。おれは重大な責任《せきにん》をせおってるのだ」
こう思うと富士男は、心の底からぼつぜんとつきあげてくる力を感じた。
と、ただ一色の墨《すみ》にぬりつぶされたような下界が切れて、ぽっかり一面に白いものがひろがった。
「ああ、水だ、助かるのはいまだ!」
水の深さも、岸への距離《きょり》も、なにも考えるひまもなく、富士男はつりかごをけって身をおどらした。水煙がとびちって、富士男のからだは底深くしずんだ。湖はなにもなかったようにもとのしずかさにかえった、大きな波紋がゆっくりゆっくり、輪《わ》をひろげてゆくばかりである。身軽になったのを喜ぶように、たこはふたたび空高くまいあがり、北東のやみにとびさった。
まもなく富士男の頭が、水面に浮かんだ。かれは立ち泳ぎをしながら、のみこんだ水をはきだすと、頭をめぐらして方角を見さだめた。目測《もくそく》で岸までは、約百メートルの見当《けんとう》だ。
「案外、近いぞ」
富士男はゆっくりと、得意の平泳ぎをはじめた。
一方、広場の一同は、意外のできごとにぼうぜん自失《じしつ》した。
「たこを追っかけろ、見失ってはたいへんだ」
とゴルドンがさけぶと、まっさきにかけだした。
「兄さん」
と次郎がつづいた。一同はバネじかけの人形のように走りだした。
「富士男君」「富士男さん」
先頭のゴルドンが、とつぜん足をとめてつったった。ドノバンがさけんだ。
「休んじゃいけない」
「いや、ドノバン、これから先は走れない」
「どうして?」
おいついたドノバンが前方をすかして「あっ!」とさけんだ。
「湖だね」
ふたりはまたしてもぼうぜんと腕を組んで、やみにほの白く光る湖をにらんだ。まもなくかけつけた一同も、ふたりの黙然《もくねん》たるすがたと、ほの白く光る水面を見くらべて太いといきをもらした。
「だめだ」
「チェッ! おれはなぜここに、ボートの用意をしておかなかったのだろう」
モコウが白い歯をがりがりかんでくやしがった。
「諸君!」
と水面をはってよぶ声がする。一同はびっくりして耳をすました。
「諸君!」
「アッ! 兄さんの声だ、兄さん!」
と次郎が狂気《きょうき》のようにさけんだ。
「諸君! 海蛇《うみへび》らはまだ島にいるぞ」
こういうと富士男はあざやかな抜き手を切って、もうぜんと泳ぎだした。
岸にあがった富士男は胴《どう》ぶるいをすると大きなくしゃみ[#「くしゃみ」に傍点]をした。
「やあやあかっぱの胴《どう》ぶるいに河童《かっぱ》のくしゃみ[#「くしゃみ」に傍点]だ」
とモコウが水玉をかけられていった。ホッとした安堵《あんど》とともに一同ははじめて笑った。
「これを着たまえ」
とドノバンが上衣をぬいだ。
「これを」
と一同はシャツやズボンをぬいだ。
「そんなに着られやしないや、だるまさんじゃあるまいし」
と富士男がいった。
「かっぱ変じてだるまとなるでさあ」
とモコウがてつだいながら、鼻をヒョコつかせた。
「違《ちが》うよ、あれは桑田《そうでん》変じて滄海《そうかい》となるだよ」
と善金《ゼンキン》がまじめな顔でいった。一同が笑った。
洞に帰ったかれらは、つかれを休むひまもなく、悪漢どもに対する緊急《きんきゅう》会議を開いた。まず富士男が口をきった。
「かつてケートおばさんが話されたように、悪漢どもの船は航海にたえないほど、大破損《だいはそん》はしていない、それなのにかれらはいまだに立ち去るようすもなく島をうろついている。これはなにか理由がなければならない。船を修復《しゅうふく》する器具がないことも理由の一つかもしれないが、もっと重大な理由がひそんでいるように思われる。ぼくは空中から連盟島の東のほう、島からあまり離《はな》れていないところに、一大陸地のあることを知った、連盟島はまったくの孤島《ことう》でなく、東方の大陸かあるいは群島を有する一無人島なんだ、悪漢どもはそれを知っているのだ、これがかれらを島におちつかせている大きな理由だと思う」
「じゃ、失望湾で見た沖の白点はやっぱり島だったのですか?」
とモコウがいった。
「そうだ、あるいは大陸かもしれない」
「ぼくらはまた救《すく》われる希望があたえられた」
とサービスが目をかがやかしていった。
「ぼくは探検《たんけん》にでかけよう!」
とドノバンがいった。
一同は悪漢のことも忘れて、新しい発見に昂奮《こうふん》した。
「諸君! それは第二の問題だ、ぼくらは目前にせまった敵に、いかなる方法で戦うかを、考えなければならぬのだ」
とゴルドンが冷静《れいせい》にいった。
「そうだ、悪漢どもが、なぜ二週間ちかくもこの島にとどまってるかは、かれらが島の近くに陸地のあることを知ってるからだ、かれらは気長くここにとどまって、時機の熟《じゅく》するのを待っている、かれらは早晩自分らの住まいを求《もと》めるだろう、いまは東方川の口に宿《やど》っているが、一歩転ずれば平和湖を発見するだろう、湖畔《こはん》にそってさまよううちには、この左門洞のほとりに出るかもしれない。ぼくらは早く防備をめぐらさねばならぬ」
凶悪《きょうあく》な海蛇《うみへび》がギロギロ目を光らして、洞前に立ちふさがってでもいるような恐怖《きょうふ》が、一同の胸をしめつけた。
「洞門に防壁をつくって戦おう」
「広場におとし穴をいくつもいくつも、つくったらいい」
いろいろな声がとんだ。
「なによりまずぼくらは、敵に発見されないことが肝要《かんよう》だ」
とバクスターがいった。
「そのためには洞の表と裏の入り口を、まつ、すぎ、灌木《かんぼく》の枝でおおい、ちょうど、茂林か樹叢《じゅそう》のようにみせかけて、悪漢の目をくらますのがいいと思う」
「名案《めいあん》だ!」一同は賛成《さんせい》した。
翌日、だちょうの森では、とうとうとおのの響《ひび》きがこだまし、松、杉の枝が、そうぞうしい音をたてて落ちた。年長組の一隊が、枝のきりだしに従事《じゅうじ》したのだ。
落ちた枝をひきずって、エッサラモッサラと、幼年組が運搬《うんぱん》する。運ばれた枝はゴルドンの指揮《しき》で、厩舎《うまや》、養禽小舎《ようきんごや》、洞門にうちかけられ、即成《そくせい》の茂林となった
「ヤアヤア、山賊のかくれ家だな」
「いや、もぐらの巣だ」
と幼年組がはしゃいだ。
「さあ、早くなかへはいってくれたまえ、どこで悪漢が目を光らしてるかもしれない」
とゴルドンがいった。いままでの快活さを失って幼年組は、あわてて洞のなかへかけこんだ。
この日からみだりに戸外へ出ることは禁じられ、ことに湖畔《こはん》の広場へは、絶対に禁足《きんそく》が守られた。それはまるで冬ごもりのときのように、洞穴深くかくれて、不安の日を送りむかえるのだった。
かてて加えて、一同のまゆをひそめさせたのは、幼年組のコスターが、熱病におかされたことであった。熱に浮かされて故郷の夢を見るのか、ひからびた口を開いては、父母の名をよび、一同はかなしく首をたれた。
「このまま死なしては、ぼくは、どんな顔をしてかれの父母にまみゆることができよう」
次郎はかたときも枕頭《ちんとう》をはなれず、コスターの看病《かんびょう》に寝食《しんしょく》を忘れた。ゴルドンはサクラ号にそなえてあった薬を、あれこれと調剤《ちょうざい》した、だが医学の知識が十分でないかれは、病名のわからない熱病に対して、ききめのある薬を調合《ちょうごう》することができない。心ははやるけれど、手はその十分の一も動かない。ただ、苦しむ病人をぼうぜんと見まもるばかりで、手のほどこしようもない。
「けっして心配はいりません、わたくしがどんなことがあっても、なおしてみせます」
ケートは医薬のたりないところを、愛情と親切をもって、まるで自分の子どもであるように、昼夜《ちゅうや》をわかたず看病《かんびょう》した、このゆきとどいた慈母《じぼ》の愛は、かれんな病人にとっては、医薬よりもなによりもまさるものであった。ケートの愛情はコスターを危篤《きとく》のふちから救った。一同はようやくまゆを開いた。
「ケートおばさんはぼくの母さんだ、そしてみんなのお母さんだ、ぼくらはこれからお母さんとよぼう」
とコスターが目をうるましていった。
「みんなわんぱく小僧ばかりで、お母さんもたいへんだよ」
とゴルドンがいった。
「ぼくは服をよごさないようにする」
「ぼくは服を破らないようにする」
幼年組がケートにとりすがっていった。
「ええ、ええ、わたくしは喜んで十五人のお母さんになりますわ、わたくしはいい子をえて幸福です」
ケートがニッコリしていった。
やさしいお母さんの愛情をえて、一同は不安のなかにも幸福な日々を送った。
ある日、ドノバンはつりざおをもって、コッソリ洞をぬけでて、ニュージーランド河畔《かはん》の樹陰にこしをおろして糸をたれた。だが、どうしたのかいっこうにつれない、一時間ばかりたっても、一|尾《び》の小魚さえかからない。ドノバンは断念《だんねん》してさおをあげた。と、川岸でえさをあさっていた鳥がなにを発見したのか、ギャアギャアと鳴きたてて、羽音高く一時にとびたった。鳴きかい相よび、友をよび集めて対岸の灌木林《かんぼくりん》の上をまるく広く輪《わ》をえがき、しだいに輪をちぢめると、一団の黒塊《こっかい》となって、灌木林《かんぼくりん》のなかにすがたをけした。
「なにかの屍体《したい》を発見したのだ。けものか? あるいは仲間割《なかまわ》れした悪漢どものひとりが、殺害《さつがい》されたのかもしれない」
こう思うとドノバンは、たしかめずにはいられない。
「一つさぐってみよう」
かれはとぶように洞に帰り、銃をかくしもって、モコウをよんだ。
「なんです、目の色をかえて?」
とモコウがいった。
「きみの力を借りたいんだ、いっしょにきてくれたまえ」
ドノバンはしぶるモコウの腕をとって、川岸にいそいだ。
「ボートをたのむよ」
「どこへゆくんですか」
「いいからぼくにまかしておいてくれたまえ」
ボートはまもなく、川を横ぎって、対岸についた。
「いっしょにきたまえ!」
岸にとびあがるとドノバンは、灌木林《かんぼくりん》をめがけてつきすすんだ、丈《たけ》を没する草むらをはらいのけてすすむこと数十歩! ドノバンはたちどまった。
「やあ、ラマの屍体《したい》だ!」
目前数歩のところに鮮血《せんけつ
前へ
次へ
全26ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 紅緑 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング