っこうである、月は午前の二時にならなければ出ない、星の数もまばらである、広場には絞車盤《こうしゃばん》がすえられ、サクラ号が船脚《ふなあし》をはかるために用いた測量索《ロクライン》をまいて、たこの糸とした、たこにつるさがったかごには、重さ六十キログラムの土をもった袋《ふくろ》をつみこんだ、そしてそのふちには、鉄環《かなわ》をつらぬいた糸がゆわえられた、それはちょうど人がのるときと同じである、準備はなった。
 ドノバン、バクスター、イルコック、ウエップの四人は、たこをかかえて九十メートルばかり向こうに去った。富士男、ゴルドン、サービス、グロース、ガーネット、モコウ、と幼年組は絞車盤《こうしゃばん》をまもった。
「よいか」
 と富士男がさけんだ。
「おう」
 とドノバンの答え。
「ソレ!」
 というかけ声とともに、直径《ちょっけい》四メートル半の大だこは、しずしずと、やみ夜の空にのぼりはじめた。
「万歳!」
 と幼年組が一時にさけんだ。
「大きな声を出しちゃいかんよ」
 とゴルドンがたしなめた。
 またたくまにたこは、暗《やみ》のなかにすがたを没した。糸をひく力はますます強くなる、それは一直線にのびて、少しも張ったりゆるんだりしない、これは上方の風勢がさかんで、たこが傾斜《けいしゃ》せず、頭をふらず、つねに平衡《へいこう》をたもっているからである、糸は最後のひとまき三百六十メートルがのびた、地面をぬくことまさに二百数十メートルの高さである、試験の成績はこれで十分である。
「成功、成功だ、もうだいじょうぶ! おろしてもいいぞ」
 と富士男がうれしそうにさけんだ。
 絞車盤《こうしゃばん》は逆転《ぎゃくてん》された、だがのぼるときのわずかの時間にくらべて、おろすとなるとなかなかたいへんであった。一同はひたいに汗して一生けんめいにまいた。一時間ののち、大だこは巨体《きょたい》を地上につけた。
「万歳!」
 またしても喝采賛嘆《かっさいさんたん》の声が、一同の口をついた。
「じゃ、このままにしておいて休もう」
 とゴルドンが一同をうながした。一同は去りかけた。と富士男がゴルドンの手をとった。
「ゴルドン君、待ってくれたまえ、ドノバン君、ぼくは相談がある」
「なんだ」
 とドノバンがたちどまった。
「ぼくらの試験はみごとに成功した、これは風勢が強からず弱からず、つねに一定の方向に吹いているからなんだ、ぼくはこんな絶好の機会が、しばしばあるとは思われない、あすも今晩と同じような天候と風勢があるかないかは、知ることができない、成功をいそぐように思うかもしれんが、ぼくはこの絶好の機会をのがしたくないんだ、だんぜん、決行したほうが得策《とくさく》のように思えるんだ」
 決意が眉宇《びう》にあらわれて、目がギラギラと光った。富士男のことばはしごく道理である、だがだれも口を開こうとするものがない。
 たこに乗って空中にのぼることは、いうにはやすく行なうにかたい。まかりちがえば、一命をすてねばならない。底深い沈黙《ちんもく》がつづいた。
「ゴルドン君、きみがだれか指名してくれたまえ」
 と富士男が沈黙《ちんもく》を破った。
「いやぼくにはできない」
 とゴルドンが悲しそうにいった。
「ぼくがゆきます」
 と次郎はさけんだ、と、これにしげきされたように
「いや、ぼくを、ぼくを!」
 とドノバン、イルコック、グロース、バクスター、サービスが同時にさけんだ。
「いいえ、兄さん、ぼくです、この大任はぼくがやるのが当然です、兄さん、ぼくにやらしてください」
「次郎君、きみは小さいんだ、それは年長組のひとりのぼくがあたるのが当然だ」
 とドノバンがいった。
「そうだ、ぼくがあたろう」
 とバクスターがいった。
「いいえ、諸君、この大任はぼくにあたえられるべきです、それが義務です」
「なぜだ! 次郎君! きみにだけどうしてその義務があるというのか」
 とゴルドンがやさしくいった。
「ぼくは、ぼくはみなを救《すく》わねばならない義務があるのです」
 ゴルドンは、次郎の日ごろと異なる真剣《しんけん》な態度《たいど》を見て、いぶかしく思った。
「次郎君はあまり昂奮《こうふん》している、いたわってやってくれたまえ」
 とゴルドンは富士男の手をとった。と富士男の全身がわなわなとふるえている。
「きみ、寒気《さむけ》でもするんじゃないか」
「いや」
 と富士男がうめくようにいった、かれの面《おもて》はあおざめ、ひたいには玉《たま》のような汗が浮いている、だが、星影《ほしかげ》くらくだれも知るよしもない。次郎はさらに決然《けつぜん》といった。
「ね、兄さん、ぼくに義務があるでしょう、ぼくをやらしてください」
「富士男君、これはなにかわけがあるんだろう、なにも次郎君ひとりがこの大任にあたる義務があるとは思えない、ね諸君!」
「そうだ」
「ドノバン君、ぼくはいっさいをざんげしよう」
 と次郎が声をふるわしていった。
「次郎! 待て次郎!」
 と富士男がさえぎった。
「いいえ、兄さん、ぼくはもうひみつにしておくことが苦しいんです、いっさいをざんげして、みなの制裁を受けたいんです、ゴルドン君、ドノバン君、みんなきいてください、諸君を父母の手からうばい、この無人島の二年の苦しみをなめさせたのは、みな、僕のいたらぬしわざからです、サクラ号が海に流れでたのは、ぼくが諸君をたわむれにおどろかそうとして、ともづなをといたからです、船がしだいしだいに沖《おき》へ流れだしたとき、ぼくはあわててとめようとしました、だがそれはむだでした、諸君、ぼくの大罪《だいざい》をゆるしてください、そしてつぐないのためにぼくにこの大任を命令してください」
 こういうと次郎は、ワッと地面に泣きふした。
「次郎、よくざんげしてくれた、おまえはいま一命をすてるときだぞ、罪のつぐないをすべきだ」
 と富士男が涙声《なみだごえ》でいった。
 意外な次郎のざんげは、一同の心を強くうった、動揺《どうよう》がさざなみのように胸から胸へつたわった、快活だった次郎が、急に陰気な子になったことも、いつも困難な仕事はまっさきにひきうけたことも、みずから一身をなげうつ冒険にのりだしたことも、おかした罪の万分の一でも、つぐなおうとしたのだ、こう思うと一同は次郎の心根《こころね》がいじらしくもあり、かわいらしくもある。
「次郎君は二年間の良心のかしゃくで、すでにその罪はつぐなわれている、そればかりではない、次郎君は危険な仕事があるたびに、みずから喜んであたってくれた、富士男君、ぼくはいまはじめてきみの高潔《こうけつ》な心を知った、きみがつねに冒険をひきうけたのは、弟をかばうあたたかい心からだったのだ」
「そうだ、ぼくらは次郎君を罰《ばっ》することはできない」
 一同がさけんだ。
「次郎君! 元気を出したまえ」
 とドノバンが次郎の手をとった、一同は次郎を助けおこそうとしたが、次郎は両手で顔をおおってはなそうとしない。
「みなさん、ぼくにこの大任をあたえてください」
 こういうとかれはすばやく身をみるがえして、かごのそばへ走った、そして土袋《つちぶくろ》をとりだすと、なかへ身をおどらした。
「次郎、待て、ぼくが乗る」
 と富士男が走った、一同もかごのそばによった。
「なぜだい兄さん、ぼくだ」
「いや、弟の罪は兄の罪だ、ぼくがはじめこの計画をたてたとき、ぼくはすでに、覚悟《かくご》していたのだ」
「うそだ、兄さん、ぼくにやらして」
「おまえはまだ小さい、空にあがるだけではなにもならないのだ、敵状《てきじょう》を視察《しさつ》することができないと、なにもならない」
「そのくらいのこと、ぼくだってわかってるよ」
 と次郎が抗弁《こうべん》した。
 弟をかばい、兄をかばう、兄弟の美しい愛情を見て、ドノバンはたまらなくなっていった。
「争《あらそ》っていては時間がたつ。この大任はぼくにあたえてくれたまえ」
「いや、ドノバン君、それはいけない、ぼくは決心しているのだ」
 富士男はこういうと、次郎をおろして自分がかわった。
「そうだ、これは富士男君の緻密《ちみつ》な頭脳《ずのう》と、勇気に信頼《しんらい》したほうがいい」
 とゴルドンがいった。
「みな、まえのように受け持ちの位置《いち》についてくれたまえ」
 ゴルドンの一言が厳粛《げんしゅく》に響《ひび》いた、一同は位置についた。
 絞車盤《こうしゃばん》が糸をのばしはじめた、富士男を乗せたたこは、じょじょにのぼってゆく、一同はただ黙然《もくねん》とあおいで、そのゆくえを見まもった、せき一つするものもない。
 すーとかごが地をはなれたとき、富士男はめまいを感じた、かれはウンと腹に力を入れて息をすった、さいわい、たこはかたむきもせず頭もふらず、きわめて動揺《どうよう》が少ない、かれはかごの四方をつった縄《なわ》をしっかとにぎった、と、ブルンとたこがうなって、ひとゆれがきた、からだが一しゅんブルブルとふるえた、それはおそろしいような、こそばゆいような、名状《めいじょう》のできない感じであった。十分間ばかりしたころ、たちまち物につきあたったようなひびきがあって、かごがゆらゆらとゆれた、富士男は時間からおして、たこの糸《いと》がのびをはったのだと知った。
 片手で縄《なわ》をにぎり、片手で望遠鏡をとって、四方を見おろした、湖水も、林も、岩壁《がんぺき》も、すべては墨汁《ぼくじゅう》をまいたようで、眼にはいるものはない、ただそれと知れるのは、島をかこむ海水と平和湖の水色ばかりである、北南西の三方はみな重々《ちょうちょう》たる密雲でとざされ、東の一角だけが、断雲《だんうん》のあいだに、三五の星がさんぜんとかがやいているばかりである。
「ああー 火だ」
 と富士男は思わずさけんだ。東の一角に低く地上に横たわった雲が、赤く染《そ》めだされている、巨大な火に、雲があぶられてできたのだ、だがそれは島をはなれること幾十キロメートルの外である。
「連盟島をさる幾十キロメートルのかなたに、一帯の陸地があって、そこに噴火山《ふんかざん》があるのだ、その火光にちがいない」
 こう思うと富士男は、先の日失望湾で見た、水天髪髴《すいてんほうふつ》のあいだに、一点の小さな白点を思いおこした。
「あれはやっぱり島だったのだ」
 と、またかれは一道の火光を発見した、それは目下の、わずかに八キロメートルぐらいはなれたところにあった。
「失望湾の浜辺のあたりだ、いや敵は、浜辺と平和湖のあいだの、茂林なのかもしれない、そうすればこれはまさしく悪漢|海蛇《うみへび》の一行が、暖をとるたき火にちがいない」
 かれはあいずの鉄環《かなわ》を落とした。鉄環はいくばくもなく、地上のガーネットの手に落ちた。
「あいずがあったぞ」
 富士男の消息《しょうそく》を、おそしと待ちかねていた一同は、極度《きょくど》に緊張《きんちょう》した。
 絞車盤《こうしゃばん》は逆転《ぎゃくてん》を開始した、このとき、風勢はしだいに吹き加わって、そのもうれつさははじめの比ではない、おまけに風位が変わって、たこは一左一右、絞車盤《こうしゃばん》の回転《かいてん》は思うように運ばない、糸が一|張《ちょう》一|弛《し》するたびに、みなはハッときもをひやした。
「全速力だ」
 とゴルドンが叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》した。
 一同は必死の力をふるって、回転をつづけた。
「アッ! 見えたぞ」
 と善金《ゼンキン》がさけんだ。
 たこは地面を去ること四十メートルばかりの上にきた。
「いま一息だ!」
 とゴルドンがはげました。
 と一|陣《じん》の強風が吹きすぎたと思うとともに、絞車盤《こうしゃばん》をとっていた、ドノバン、バクスター、イルコック、グロース、サービス、ウエップの六名は、ほんぜんと地上に投げたおされた。
「糸が切れた」
 とゴルドンがさけんだ。
 たこは富士男をのせたまま、黒暗《くらやみ》のなかをどこともなく飛び去った。
「ああ! 兄さん!」
 と
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