なった。ひとりの水夫はあわてすぎて足をすべらし、海中にきえた。ケートとイバンスはそのすきに、伝馬船へ乗り移った。
明けがたから風が変わって、黒雲が大海をあっした。天候は大あらしに急変した、激浪《げきろう》と突風《とっぷう》にもまれて、帆柱《ほばしら》は吹き折れ、かじは流され、船はまったく自由を失った。みなは船底にかじりついて生きた心持ちもない。船は激浪にもてあそばれつつ、連盟島の北浜に乗りあげた。ケートは安心とともに気を失った。
フト眼をさますと、がやがや話し声がきこえる。きき覚えのある海蛇のだみ声である、ケートは耳をすました。
「おい抽《ひ》き出しの銃はだいじょうぶか」
「ちっともぬれてません」
「ありがてえ、弾薬は?」
「これもだいじょうぶのこんりんざいです」
「じゃ、とにかく、東のほうへいってようすをさぐろう」
「親分、運転手の野郎《やろう》はどうしましょう」
それは四本指の声である。
「そうだ。おまえとロックが監視《かんし》しろ」
「女のほうは」
「ありゃ、浪にさらわれていまごろはおだぶつさ、もし生きてりゃ、おれたちの秘密を知ってるから、殺してやる」
悪漢どもの足音は東のほうへ遠ざかった。ケートはがばと起きた。そしてよろめく足をふみしめて、すばやく森のなかへ逃げた。悪漢どもに発見されれば命がない、こう思うと足のつづくかぎり、息のつづくかぎり歩いた。空腹と疲労《ひろう》でもう一歩も歩けなくなった。彼女は昏倒《こんとう》した。
奇々怪々のケートの物語はおわった。一同は驚愕《きょうがく》と危懼《きく》の念にあおくなった。七人の凶暴無慚《きょうぼうむざん》の悪漢が、いまこの島を徘徊《はいかい》している。かれらは人を殺すことは草をきるよりもよういに思う者どもである。もしこの左門洞を知ったら、かならずこれを占領し、奴隷《どれい》のようにこき使い、命令にそむけば銃殺するであろう。こう思うと、生きた心地もない。わけて富士男が心配したのは、ドノバン一行の四人の運命である。
「ドノバンらがあぶない! 早くこの洞《ほら》にむかえねば心配だ」
と富士男がいった。
かれらは悪漢どもの上陸を知らないであろう。発見されたら地獄《じごく》の患苦《かんく》が、口をひらいて待っている。
「そうだ、早く知らせねばならない」
とゴルドンがいった。
「ドノバンとは?」
とケートがいった。
「ぼくらの友だちです」
とゴルドンがいった。
「ああかわいそうに、悪漢どもにみつかったらどうしましょう」
とケートは胸に手をおいた。
「ぼくがいこう」
と富士男がいった。
「方法は?」
とゴルドンがいった。
「ぼくはモコウとふたりでボートをあやつって、平和湖を横ぎり、東川をくだってかれらの住まいをたずねよう」
「いつ出発するの」
とサービスがいった。
「一|刻《こく》も時をあらそう危急《ききゅう》のばあいだ。暗くなったらすぐ出発しよう」
「兄さん、ぼくもつれていってください」
と次郎がギラギラ目を光らしていった。
「だめだよ次郎、ボートは六人以上は乗れない、ぼくらは帰りには四人を乗せねばならない」
「兄さん、ぼくは小さいです。はしのほうに乗ります、兄さん、ぼくは危険《きけん》な仕事をしたいのです」
次郎は一同を不幸にした罪のつぐないをしようとしている。こう思うと富士男は、次郎がいとしかった。
「次郎! おまえの気持ちはよくわかる。兄さんはうれしい、だがいまはその時機《じき》ではないよ」
「そうか、だめか!」
と次郎はがっくり首をたれた。
午後八時、ボートの用意はできた。富士男とモコウはおのおの一個の銃と、ひとふりの腰刀《こしがたな》をおびて、一同に送られた。
「用心してくれたまえ」
「ああ、だいじょうぶだよ」
天はおぼろにかすんで星の光があわい。黒々ともりあがった林を二つにわって、白銀の川が二勇士をむかえた。風は順風《じゅんぷう》、舵手《だしゅ》は名手、帆は風をはらんでボートは矢のようにすすんだ。またたくまに平和湖に到着した。このとき、風はまったく死にたえて、帆の力をかりることができない。
「風がなくなった」
とモコウが落胆《らくたん》した。
「ふたりでこげばだいじょうぶだ」
と富士男がいった。
湖岸にそってふたりは、力かぎりこぎすすんだ。寂然《じゃくぜん》とした湖、林には鳥の声もきかず、ただ、烈々《れつれつ》たる友情を乗せて水をかくかいの音が、さびしくひびくばかりである。
ボートは東川の口についた。これからは流れにまかせればいいのだ。
「モコウ、たのむよ」
と、富士男が小声でいった。モコウはうなずいてさおをあやつった。数町ばかりくだったころ、へさきに立ったモコウが、ころぶようにともの富士男の手をとった。
「富士男さま、火が、火が、……」
右岸の十メートルくらいむこうに、ホラホラと燃ゆるたき火の光が、木の間をうがって赤く見える。
「舟をつけよ」
「危険《きけん》ですよご主人! 悪漢《あっかん》かもしれません」
「ドノバンかもしれない」
「わたしもいっしょにつれていってください」
「いや、ぼくがひとりでゆく、きみはボートをまもってくれたまえ」
「そうですか」
とモコウは鼻を鳴らした。
身軽《みがる》くボートをとびおりた富士男は、腰刀を右手にぬき、左手に銃をにぎって、火光をたよりに灌木林《かんぼくばやし》をわけすすんだ。
火を受けた一団の大きな黒い影が、うごめいている。とその一つが、ほえ声とともに身をおどらしてとびかかった。
「あっ! ジャガー(アメリカとら)だ!」富士男はがくぜんとした。
「助けて、助けて!」と絹《きぬ》をさく悲鳴《ひめい》!
「あっ! ドノバンの声だ!」
富士男はまりのように火光めがけてとんだ。見ればまさしくドノバンが地上に倒れ、赤手《せきしゅ》をふるって格闘《かくとう》している。左のほうの木陰に寄ってイルコックが、銃をかまえてねらいをつけている。
「イルコック! 銃をはなってはいけない」
と富士男がさけんだ。
「ああ、富士男君!」
とイルコックがさけんだ。
富士男はそれに答えず、とらのうしろにまわってとびかかりざま、ひとつき刺《さ》した。新たな敵を見てとったとらは、らんらんたる目をいからし、大口あけてふりむきざまに富士男をめがけて、ひと撃《う》ちとばかりつかみかかった。ドノバンはそのすきにのがれた。すばやく身をひるがえした富士男は、身をしずめて一刀をつかをも通れと、とらの腹部をつきさした。ものすごいうなりをあげてとらは、どっと地ひびきたててたおれた。
富士男はホッと息をついた。とらのためにひっかかれたと見え、左かたの服はずたずたにさけて、鮮血《せんけつ》がこんこんと流れだしている。
「富士男君! これを!」
とドノバンがシャツの袖《そで》をちぎって、くるくるとゆわえた。見る見る鮮血《せんけつ》は仮《かり》ほうたいをまっかに染めた。ドノバンはじっとそれをみつめた。
つねに命令にそむき、侮辱《ぶじょく》し、反対の行動をとった自分である。それをいま、富士男は一身の危険《きけん》をおかして一命を救ってくれた。こう思うとドノバンは、心の奥底からつきあげてくる悔恨《かいこん》の情にせめられた。
「富士男君! ぼくをゆるしてくれたまえ、ぼくはなんといって感謝していいかわからない!」
ドノバンはボロボロと涙をこぼした。
「なんでもないよ、ドノバン君、きみだってぼくの地位に立ったら、ぼくを救ってくれたにちがいない、そんなことはどうでもいいじゃないか、おたがいのことだよ、それよりぼくらは、早くここを去らねばならない」
「どうして?」
とイルコックがいった。
「道々、話すよ、さあゆこう」
と富士男が四人をせきたてた。
かれはことば短かに、海蛇《うみへび》らの凶悪無慚《きょうあくむざん》を語った。
「セルベン号! それはぼくらも知ってる」
と四人が同時にさけんだ。
「そのためにぼくらを救いにきてくれたのだね」
とドノバンが感きわまっていった。
「いま、ぼくらは一|致協力《ちきょうりょく》して大敵にあたらねばならないのだ」
と富士男がいった。
「ではぼくの発砲《はっぽう》をとめたのもそのためだね」
とイルコックがいった。
「そうだ、万一悪漢どもにきこえたらたいへんだからね」
「ああぼくははずかしい、きみはぼくよりも、百|段《だん》もすぐれた人だ、富士男君! なんでも命令してくれたまえ、ぼくはきみの命令ならなんでも服従する」
とさすが倣岸《ごうがん》のドノバンも、富士男の勇気と思慮《しりょ》と大きな愛の前に頭をたれた。かれはかたく富士男の手をにぎった。
「日本人はえらい!」
とイルコックがさけんだ。
「これが、ほんとの大和魂《やまとだましい》っていうんだ」
とウエップがいった。
「そんなにほめてくれてぼくこそはずかしい」
と富士男がほおを赤くした。
「ぼくはただ当然《とうぜん》のことをしたまでだよ」
富士男の冒険《ぼうけん》
星の光がうすれて、黒々ともりあがった森のかなたの空が、ポッとほの黄色くあかつきの色を点じた。
「夜が明けたぞ」
とサービスがいった。声は寒さにふるえている、春とはいえ未明《みめい》の河畔《かはん》の空気はつめたい。悪漢どもの目につくことをおそれて火気は禁じられているのだ、寒いが、危険をおかして捜索《そうさく》に出た友の身の上を思えばなんでもない、各自はかたくくちびるをかんで一行の帰りを待った。
じょじょに東の天《そら》は紅《あか》みをましてゆく。草むらが動いて、目ざめた鳥があかつきの空をさして飛んだ。モヤモヤと川霧が立ちのぼって河が乳白色にぼかされてゆく。かいの音はまだきこえない。
「遅《おそ》いな」
とガーネットがいった。
「なにかまちがいがあったのじゃなかろうか」
とサービスが不安そうにいう。
「ぼくは兄さんを信ずる、だいじょうぶだ」
と次郎がフハンの鼻をなでながら力強くいった。フハンは次郎のひざにうずくまって眼を細めていた。
富士男とモコウが出発したのち、万一をおもんばかったゴルドンは、年長組のガーネット、サービス、バクスターとはかって、河を見張《みは》りすることにした、意見は一致した。
「だが、バクスター君だけは、幼年組の保護《ほご》のために残ってくれたまえ、でないと幼年組が心細《こころぼそ》がるだろうから」
「そのかわりにぼくがゆきます」
と次郎がいった。
「いや、幼年組はとどまってもらう、夜気にあたって病気になったらたいへんだからね」
とゴルドンがやさしくいった。
「いや、ぼくの身になってください、ぼくはじっとしていられないんです、兄さんにだけ危険をおしつけて、弟がどうして安閑《あんかん》とできましょう。ぼくは病気にならないように、フハンをつれてゆきます、寒くなったらきゃつをだっこします、ぼくの心を知ってくれるなら、フハンはぼくをあたためてくれるでしょう」
「おうなんとけなげな子でしょう」
と寝台のケートがおきあがっていった。
「ゴルドンさん、つれていってやってくださいよ、神さまはいつでも正義の士《し》の味方です」
「ぼくもそう信じます、次郎君、いこう」
「ありがとう」
と次郎が眼をかがやかして勇んだ。
太陽の第一|箭《せん》が雲間を破って空を走った。このとき、次郎の愛撫《あいぶ》に身をまかせていたフハンが、両耳をキッと立てて鼻を鳴らすと、河岸《かし》を上手《かみて》へ走った。
「なんだろう?」
とサービスが緊張《きんちょう》していった。
「かいの音がするぞ」
とゴルドンが、川上をすかすようにしていった。
かすかに水をかく音がする、とフハンが一声長く尾をひいてほえた、それは親しいものによびかける歓喜《かんき》をあらわすほえ声だ。
「帰ってきたぞ」
一同は目をかがやかし、川霧のこめた川上をじっとみつめた。
フハンのほえ声はだんだん近くになる、ボートと平行してくだってくるのだ、一同は緊張《きんちょう
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