ことだ、元気で乗りきろう」
と富士男はいった。
「いいあんばいに追風《おいて》になりました。一直線にゆくことができます」とモコウはいった。
「だが、気をつけろよ、船より波のほうが早いから、うしろからかぶさってくる波にからだをさらわれないように、帆綱《ほづな》にからだをゆわえつけろよ」
富士男のことばがおわるかおわらないうちに、大山のごとき怒濤《どとう》が、もくもくとおしよせたかと見るまに、どしんと甲板《かんぱん》の上に落ちかかった。同時にライフ・ボート三せき、ボート二せきと羅針盤《らしんばん》をあらいさり、あまる力で船べりをうちくだいた。
「ドノバン、だいじょうぶか?」
富士男はころびながら友を案《あん》じていった。
「ああだいじょうぶだ。ゴルドン!」
「ここにいるよ、モコウは?」
モコウの声はない。
「おやッ、モコウは?」
富士男は立ちなおってさけんだ。
「モコウ! モコウ! モコウ!」
よべどさけべど、こたうるものは、狂瀾怒濤《きょうらんどとう》のみである。
「波にさらわれた!」
ゴルドンはふなばたから下を見おろしていった。
「なんにも見えない」
「救《すく》わなきゃならない、浮き袋と縄《なわ》を投げこめよ」と富士男はいった、そうしてまたさけんだ。
「モコウ! モコウ!」
どこからとなくうなり声がきこえた。
「た、た、助けて!」
「おうモコウ!」
声はみよしのほうである、みよしは波にへりをくだかれてから、だれもゆくことができなくなった。
「みよしだ、ぼくはゆかなきゃならん」
富士男はいった。
「あぶないよ」
とドノバンがいった。
「あぶなくてもゆかなきゃならん」
モコウは富士男の家につかわれている小僧《こぞう》で、昔ふうにいえば、主従《しゅじゅう》の関係である、だが富士男は、モコウをけっして奴隷的《どれいてき》に見なしたことはない。かれは白皙人《はくせきじん》も黄色人も黒人も、人間はすべて同一の自由と権利《けんり》をもち、おたがいにそれを尊敬《そんけい》せねばならぬと信じている。世界の人種は平等《びょうどう》である、人種によって待遇《たいぐう》を別にしてはならぬ。これはかれが平素その父から教えられたところである。かれはモコウに対しても、いつも親友の愛情をそそいでいる。
友を救うためには、自己《じこ》の危難《きなん》をかえりみるべきでない、義侠《ぎきょう》の血をうけた富士男の意気《いき》は、りんぜんとして五体にみちた。かれは面《おもて》もふらずまっすぐに、甲板の上をつたいつたい船首のほうへ走った。
「モコウ! モコウ!」
返事がない。
「モコウ! モコウ!」
声はしだいに涙をおびた。とかすかなうなり声がふたたびきこえた。
「モコウ!」
富士男は声をたよりに巻《ま》きろくろとみよしのあいだにあゆみよった。
「モコウ!」
一度きこえたうなり声はふたたびきこえなくなった。
「モコウ!」
声のかぎりさけびつづけてみよしへ進まんとした一せつな、かれはなにものかにつまずいて、あやうくふみとどまった。
「ううううう」
つまずかれたのは、モコウのからだであった。
「モコウ! どうした」
富士男は喜びのあまりだきついた。モコウは巨濤《おおなみ》にうちたおされたひょうしに、帆綱《ほづな》[#ルビの「ほづな」は底本では「ほずな」]にのどをしめられたのであった、かれはそれをはずそうともがくたびに、船の動揺《どうよう》につれて、綱がますますきつく[#「きつく」に傍点]ひきしまるので、いまはまったく呼吸《いき》もたえだえになっていた。
「待て待て」
富士男はナイフを出して帆綱《ほづな》を切った。
「ああ、ありがとう」
モコウは富士男の手をかたくにぎったが、あとは感謝《かんしゃ》の涙にむせんだ。
ふたりはハンドルの下に帰った、だが嵐《あらし》はいつやむであろうか。
南半球の三月は北半球の九月である。夜が明けるのは五時ごろになる。
「夜が明けたらなんとかなるだろう」
少年たちの希望はただこれである、荒れに荒れくるう黒暗々《こくあんあん》の東のほうに、やがて一|曳《えい》の微明《びめい》がただよいだした。
「おう、夜が明けた」
一同が歓喜《かんき》の声をあげた。あかつきの色はしだいに青白くなり、ばら色になり、雲のすきますきまが明るくなると、はやてに吹きとばされるちぎれ雲は、矢よりもはやく見える。
だが第二の失望《しつぼう》がきた。夜は明けたが濃霧《のうむ》が煙幕《えんまく》のごとくとざして、一寸先も見えない、むろん陸地の影など、見分くべくもない。しかもいぜんとして風はやまぬ。
四人の少年はぼうぜんとして甲板《かんぱん》に立った。かれらはいよいよ絶望《ぜつぼう》の期がせまったと自覚《じかく》した。
その
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