きょうふ》の夜が、明けようとしている。
「助かったぞ」
 とドノバンが立ちあがった。一同は未明の微光《びこう》のなかに思わず顔を見あわせた。
「だがぼくらは人間の務《つと》めをおこたった」
 ドノバンがかなしそうにいった。
「ぼくらは自分のことばかり考えた、ぼくらは助かることができたが、あの死体はどうなったろうか」
 一同は頭をたれた。はたしてあの死体はこときれていたのだろうか、あるいはなお一るの気息《きそく》が通っていたのではなかろうか、自分らはそれをたしかめもせず、ただおそろしさのために、人間の本分をおこたった、慚愧《ざんき》の念が心をかんだ。
「そうだ。ぼくらは卑怯《ひきょう》だった」
「はずかしい行為をした」
 断雲《だんうん》は低くたれて、奔馬《ほんば》のごとくとびきたり、とびさる、まだ勢《いきお》いのおとろえない風のなかを、四人はたがいに腕をくんで浜辺に出た。
 ボートのありかはすぐに見つかった。だが、二個の死体はどこにも見あたらなかった。
「潮に流されたのだ」
 ドノバンが悲しそうにいった。
「かわいそうに……ぼくらが卑怯《ひきょう》だったために、ふたりを見殺しにしたのだ」
 イルコックが鼻をつまらした。
「だが、ぼくは夜中にあらしのなかに、人の声をきいた」
 とウエップがいった。
「ぼくもきいた」
 とグロースがいった。
「さがしてみよう」
 とドノバンが岩の上にのぼった。だが、ただ一|様《よう》にほうはいたる巨浪《きょろう》が、無辺《むへん》に起伏するのを見るばかりで、何者の影も見あたらなかった。
「だめだ」
 ドノバンはがっかりしておりてきた。
 ボートは長さ四メートルばかりの伝馬船《てんません》で、帆柱《ほばしら》は根元から折れ、右舷《うげん》はひどく破れていた。きれぎれの帆と、帆綱《ほづな》の断片がちらばっているばかりで、船中にはなにもなかった。
「なにか文字があるぞ」
 船尾《せんび》をしらべていたグロースがさけんだ。一同は走りよった。なるほど、そこにはうすくきえかかった数個の文字があった、ドノバンが読みあげた。
 セルベン号・サンフランシスコ
「あっぼくの国の船だ!」

     難また難

 ドノバンの一行を送りだしたあとの左門洞はあたかも火がきえたようにさびしくなった。ことごとに党規《とうき》をみだそうとした四人ではあったが、さて分離してすがたを見せないと、完全した歯が一|朝《ちょう》にしてぬけおちたようで、なにかたよりない、しっくりと気持ちのあわない空気を感じる。
 春色は日ましにこくなるに、一同は毎日うつうつとして楽しむふうもない。富士男はこれを見るのがなによりもつらかった。
「もっとほかにいい方法がなかったろうか、もっと考慮すべきではなかったろうか」
 こう思うと、一時の激情《げきじょう》にかられて、四人を除名《じょめい》したことが、深くくいられてならなかった。日ごとの煩悶《はんもん》はかれの血色のいい頬《ほお》をあおくした。いつも清くすんだ眼は悲しみにくもった。
「おい、富士男君! なにをぼんやりしているんだい、こんなすてきなニュースがあるのに……」
 と、ゴルドンがニコニコして、富士男のかた先を軽くたたいた。かれは富士男の苦悩《くのう》は十分に推察《すいさつ》した、けれど、責任者の地位にあるふたりが、しずんだ顔色を一同に見せては、連盟の士気がいよいよ沮喪《そそう》してしまう。その結果は重大である。こう思ったかれはむりにもはればれと元気を出した。
「モコウのやつがとてもこっけいなんだよ」
「どうして?」
 と富士男がしずんだ声でいった。
「鼻の頭にまっかなおでき[#「おでき」に傍点]ができたんだ。まるで噴火山《ふんかざん》のようにみごとなんだ、みんながはやしたてるんで、鼻をかくして台所へ逃げていって、出てこないんだよ。ハハハハ」
「……」
「善金《ゼンキン》のやつは大ねずみに鼻をかじられたよ」
「どうして?」
 と富士男はまえよりもやや明るい声でいった。
「それがおもしろいんだ、寝しなにこっそり砂糖をなめたらしいんだ、夜中に口のあたりをペロペロとなめるやつがある。びっくりして眼をさますと、大きなねずみが何匹も何匹も顔をなめている、かれがおっぱらうと、一匹が鼻の頭をかじって逃げたんだ。善金《ゼンキン》は大憤慨《だいふんがい》さ。なにか支那の格言《かくげん》のようなことをいった。エーと、身体《からだ》は両親のもの……それからなんだったかな」
 とゴルドンが頭をひねった。
「身体髪膚《しんたいはっぷ》これを父母にうく、あえて毀傷《きしょう》せざるは孝《こう》のはじめなりさ」
「そうだそうだ、ねずみふぜいに鼻をかじられては両親にすまないってんだね」
「からだをたいせつにして勉強するのが、孝行の第
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