私やるわ」
毎日集まるたびに一同は何か食べることにきまっていた、うなぎやてんぷら、支那料理、文子はいろいろなものをご馳走になった、それらの費用は大抵《たいてい》手塚からでた。だが手塚とても無尽蔵ではない、かれも次第に小遣《こづか》い銭に困りだした。
「文子さん、どうにかならないか」
毎日人のご馳走になってすましているわけにゆかない、文子は母に貰った小遣《こづか》い銭を残らずだした、二、三日すぎてかの女は貯金箱に手をつけた、それからつぎに本を買うつもりで母をだました。そうしなければ秘密をあばかれるからである。こういう状態をつづけてるうちにかの女はだんだんこの団体の不規則で野卑な生活が好きになった、母の前で行儀《ぎょうぎ》をよくしたり、学校の本を復習したりするよりも男の子と遊んで食べたいものを食べているほうがいい。
文子の母はいままでとうってかわった文子の態度に気がついた。かの女は文子をきびしくいましめようと思った、だがその原因をきわめずにいたずらにさわぎを大きくしてはなんの役にも立たぬ、これにはなにか力強い誘惑《ゆうわく》があるにちがいない。
こう思うものの悲しいかなかの女はそれを探偵すべき手がかりがないのであった、父にいえばどんなに叱《しか》られるかしれない、十六にもなれば人の目につく年ごろだからめったなことをして奉公人共に後ろ指をさされることになると、あの子の名誉にもかかわる、さりとてうちすておくこともできない。
わが子を叱りたくはないが、叱らねば救うことはできない、母は思案に暮れた。かの女はとうとう光一の室《へや》へいった。
「光一、おまえに相談があるんだが……」
「なんですか、なにかうまいものでもぼくにくれるの?」と光一は微笑していった。
「それどころじゃないよ、文子のようすがこのごろなんだか変だとおまえは思わない?」
「変ですな」
「そうだろう」
「ほっぺたがますますふくれる」
「そんなことじゃない、学校の帰りが大変におそい」
「居残りの稽古があるんです」
「でもね、お金使いがあらいよ」
「本を買うんです、いまが一番本を買いたい年なんです、ぼくにも少しください」
「おまえのことをいってるんじゃないよ、本当に文子が本を買うためにお金がいるんだろうか」
「そうです」
「でも毎晩なんだか手紙のようなものを書いてるよ」
「作文の稽古ですよ、あいつなかなか文章がうまいんです」
「このあいだ男の子と歩いているのをお松が見たそうだよ」
「男の子とだって歩きますよ、ぼくも女の子と道づれになることがある、隣の珠子《たまこ》さんが犬に追われたとき、ぼくはおんぶして帰ってきた」
「おまえはなんとも思わないかね」
「だいじょうぶですよお母さん、文子は決してばかなことはしませんよ、ぼくの妹です、あなたの娘です」
「そうかね、それならいいが」
母は安心して室《へや》をでた、あとでひとり光一はテーブルにほおづえをついて考えこんだ、文子が毎日|晩《おそ》く帰る、たまに早く帰っても道具をほうりだしたままどこかへでてゆく、それについては光一も面白からず思っている、のみならず、このごろはしみじみと話をしたこともない、母の言葉によってさてはなにかよからぬことがあるかも知らぬ、と思ったものの、母に心配をかけるのはなによりつらい、できることなら自分ひとりで事の実否《じっぴ》をきわめてみたい、そうして不幸にも妹に危険なことがあるなら母にも父にも知らさずに、自分ひとりで万事を解決してやろう、こう思ってわざと平気を装《よそ》うて母に安心さした。
だが文子ははたして悪魔の手に落ちたであろうか。
光一は、じっとそれを考えつづけるうちに階下《した》の方で文子の声がした。
「ただいま!」
光一は立ちあがった、二階を降りると文子は靴をはくところであった。
「文さん」と光一は呼びとめた。
「なあに?」
「どこへいくの?」
「お友達が待ってるのよ、テニスよ、今日は復讐戦《ふくしゅうせん》よ、大変よ」
「ちょっと待ってくれ」
「だって、もうおそいんですもの、ああ暑い、私汗がびっしょりよ」
かの女は風呂敷包みをほうりだしてさっさとでていった。光一は風呂敷包みを持ったまましばらく妹の後ろ姿を見送ったが、急に二階の書斎へかけあがった。かれは風呂敷包みを解いた、中から歴史や地理や図画や筆箱などがでた、かれはそれらを一つ一つしらべると雑記帳の間から一封の手紙が落ちた。封筒にはただ「文子様」と書いてある。
かれは中をひらいた。
「一昨日《おととい》逢って昨日《きのう》逢わなかった、いつものところへ来てください、今日《きょう》は大事な相談があります。文子さん……千三より」
「あっ」とばかりに光一は思わず声をあげた。
「千三! 千三! 青木か、ああ青木が……あのチビ公が、畜生《ちくしょう》!」
茫然《ぼうぜん》としりもちをついた光一の顔は見る見る火のごとく赤くなった。畜生! 恩知らず! あいつが文子を誘惑《ゆうわく》しているのだ、あいつが文子を誘惑しているのだ、あいつがおれもおれの父もあれだけにつくしてやったにかかわらず妹を誘惑して妹から銭を取りやがった、ああチビ公! そんなやつだとは思わなかった、おれは売られた、おれは……おれは……。
光一はそのまま二階を降りるやいなや、ぞうりをつっかけたまま家を出た、かれはまっすぐに千三の家へ走った。
「まあ坊ちゃん、せっかくおいでくだすったのに、千三は留守《るす》ですよ」と千三の母がいった。
「商売から帰らないのですか」
「今日はね、お昼前だけでお昼すぎから休みです、ボールへいったのじゃありますまいか」
「さようなら」
光一はすぐ引きかえして黙々塾《もくもくじゅく》へでかけた。塾《じゅく》にはだれもいなかった。光一はひっかえそうとすると窓から瘠《や》せたひげ面《づら》がぬっと現われた。
「やあ柳君、ちょっとはいれ」
「ぼくは急ぎますから失礼します」
「なに? 急ぐ? 男子たるものが事を急ぐという法があるか、急ぐという文字は天下国家の大事な場合にのみ用うべしだ」
「ですが先生、ぼくは……」
「敵に声をかけられておめおめ逃げるという卑怯者《ひきょうもの》は浦中にあるかも知らんが、黙々塾《もくもくじゅく》にはひとりもないぞ」
「じゃ簡単にご用向きをうかがいましょう」と光一は中腹《ちゅうっぱら》になっていった。
「よしッ、じゃきみにきくがきみは水を飲むか」
「飲みます」
「一日|何升《なんじょう》の水を飲むか」
「そんなに飲みません」
「いかん、人間は毎日二升の水を飲むべしだ、顔回《がんかい》は一|瓢《ぴょう》の飲といったが、あれは三升入りのふくべだ、聖人は」
「さようなら」
光一はたまらなくなって逃げだした。
「ばかにしてやがる、塾長《じゅくちょう》があんな風だから弟子共までろくなものがない、あん畜生! チビのやつ、どこへいったろう」
光一は赫々《かっかく》と燃え立つ怒りにかられながら血眼になって千三を探しまわった、かれは大抵《たいてい》千三が散歩する道を知っていたので調神社《つきのみやじんじゃ》の方へ走った。かれは夢中に並み木と並み木の間をのぞいたりお宮をぐるぐるまわったりした。と、かれはふと大きな松の下で人影を見た。
十二
わが妹を誘惑《ゆうわく》して堕落《だらく》の境《さかい》にひきこもうとしつつあるチビ公をさがしまわった光一がいま松の下陰で見たのはたしかに妹文子の片袖《かたそで》とえび茶のはかまである。
「ひとりだろうか、ふたりだろうか」
かれにはそれがわからなかった。十|幾本《いくほん》となく並んだ松と松との間はせまい。
「どうしてこんなところへ来てるんだろう、多分チビと一緒だろう」
光一はこう考えた、だが急にふたりの前へ出たらふたりはおどろいて逃げるかもしれない。かれはこう思ってしずかに足をしのばした。と突然《とつぜん》横合いの松かげから口笛が起こった。と思う間もなく石のつぶてが四方から飛んできた。
「だれだ」と光一は背後を向いていった。が人の姿は見えない。菜の花畑の間や肥料小屋の間からさかんにつぶてが飛んでくる。
「卑劣なやつだ、でてこい」
かれはこういいながら八方を睨《にら》んだ。そうしてふたたび文子の方を見やると文子の姿はもう見えない。
「しまった、どこへ逃げたろう」
かれは血眼になってさがした。もうつぶては飛んでこないが、お宮の境内《けいだい》はしんとして人の音もない。風が出て松のこずえをさらさらと鳴らした。こまかい葉の影のところどころに春の日がこぼれたように大地に光っている。光一はお堂の前にでた。そこの桜《さくら》の下に千三が立っている。光一は赫《かっ》とした。かれは野猪《のじし》のごとく突進した。
「おい、チビ!」とかれは叫んだ。千三はおどろいて顔をあげた。かれはいま石獅子《いしじし》の写生をしていたのであった。
「やい、きさまはおれをだましたな、きさまはおれの妹をきさまは……きさまは……」
あまりにせきこんだので光一の声が喉《のど》につまった。千三はあきれて目をきょろきょろさせた。かれは光一がいたずらにこんなことをいってるのだと思った。
「やい、きさまはここでなにをしてるんだ」
「ぼくは高麗《こま》犬の写生をしてるんだよ、どうもね、一つの方が口をあいて一つの方が口をしめてるのがふしぎでならねえ」と千三はいった。
「なにがふしぎだ、きさまがここにいる方がよっぽどふしぎだ、ばかやろう!」
「きみは本当にそんなことをいってるのか」と千三は改まった。
「あたりまえだ、きさまはおれの妹を誘惑したろう」
「ぼくが!」
「あそこの松のところで妹と話をしていたのだ、それをおれが見た、きさまから妹にやった手紙も見た、知らないとはいわせないよ、ばかッ」
「おい柳! どうしたというんだ、ぼくがきみの妹を? きみ! きみ! それは嘘《うそ》だ、とんでもないことだ、きみ、誤解しちゃいけないよ」
「白ぱっくれるなよ、おれには証拠がある」
「じゃ証拠を見せたまえ」
「証拠はこれだ」
光一は拳骨《げんこつ》を固めて千三の横面をなぐった。あっと千三は頬《ほお》に手をあてた。かれは火のごとく顔を赤くしたがやがて目に一ぱいの涙をためた。
「きみはぼくをなぐったね」
「無論だ、文句があるならかかってこい」
「柳君!」と千三は光一の腕《うで》をとった。「きみは後悔《こうかい》するぞ、きみはぼくをそんな人間だと思っていたのか、きみは……」
「なにを? 生意気な」
光一は千三を横に払《はら》った。千三は松の根につまずいて倒れた。筒袖《つつそで》の袷《あわせ》にしめた三尺帯がほどけて懐《ふところ》の写生帳が鉛筆と共に大地に落ちた。このときお宮の背後から手塚が現われた。
「やあ柳! どうしたのだ」と手塚がいった。
「こいつはね、不都合なことをするからこらしてやったんだ」
「チビじゃないか、おいチビ、おまえ一体生意気だよ、おまえはなんだろう、いま、ここで文子さんと話していたんだろう」と手塚はいった。
「ぼくはひとりだよ」と千三は起《た》とうともせず大地に座りながらいった。
「隠すなよ、おれがちゃんと見ていたんだ、なあ柳、こいつはゆだんがならないよ、気をつけたまえね、しかしこのくらいやっつけたら二度と悪いことはしまいから堪忍《かんにん》してやれ、可哀《かわい》そうに、おいチビ、改心しろよ」
手塚は光一をなだめなだめして手を曳《ひ》いて去った。境内《けいだい》はふたたびもとの静寂《せいじゃく》にかえった。さらさらさらと動く松の梢《こずえ》の上に名も知らぬ小鳥が一つどこからともなく飛んできてさえずりだした。その間から遠くの空の白い雲が見える。千三は座ったまま動かなかった。かれはなにがなにやらわからなかった。かれの第一に感じたのは光一の乱暴! そのつぎに起こったのは金の力と腕の力の相異によってだまって侮辱に甘んじなければならぬ悲しさであった。柳は財産家の子だ、それに腕力が強い、貧乏で身体《からだ》が小さいおれは
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