り畳《たたみ》がぼろぼろだ、生徒は町を歩くにいつも小さくなってしょぼしょぼ[#「しょぼしょぼ」に傍点]している、だからせめて野球でもいいから一遍《いっぺん》勝たしてやりたい、実力のあるものは貧富にかかわらず優勝者になれるものだということを知らしめたい、師範生も中学生も黙々生《もくもくせい》も同等のものであると思わせたい、大手をふって町を歩く気にならせたい、だからどうしても今度は勝たねばならん、わしもこの年になって、なにをくるしんですっぱだかになって空《あ》き地《ち》でバットをふり生徒等を相手に遊んでいたかろう、生徒の自尊心を養成したいためだ、そうして一方において町の人々や官学崇拝者を見かえしてやりたいためだ、野球の勝敗は一小事だが、ここで負ければわしの生徒はますます自尊心を失い肩身を小さくする、実に一大事件だ、なあ安場、今度こそはだ、なあおい、しっかりやってくれ」
先生の声は次第に涙をおびてきた。
「先生!」
安場は燃ゆるような目を先生に向けていった。
「ぼくもそう思ってます、ぼくはかならず勝たしてごらんに入れます」
安場は翌日規則正しい練習をした、一回二回三回一同は夜色が迫るまでつづけた。いよいよ明日《あす》になった土曜日の早朝から一同が集まった。
「今日《きょう》は休むよ」と安場はいった。
「明日《あす》が試合ですから、是非今日一日みっちりと練習してください」
と一同がいった。
「いやいや」と安場は頭をふった。
「今日はゆっくり遊んで晩には早く寝ることにしよう、いいか、熟睡するんだぞ、ひとりでも夜ふかしをすると明日は負けるぞ」
その日は一日遊んで安場は東京における野球界の話を聞かしてくれた、かれは一高と三高の試合の光景などをおもしろく語った。一同はすっかり興奮《こうふん》して目に涙をたたえ、まっかな顔をして聞いていた。
その夜千三は明日《あす》の商売のしたくをおわってから窓から外を見やった、外は暗いが空はなごりなく晴れて星は豆をまいたように輝いていた、千三は明日《あす》の好天気を予想してしずかに眠った。
目がさめると、もう朝日が一ぱいに窓からさしこんですずめの声が楽しそうに聞こえる。
「やあ寝過ごした」と千三はあわてて飛び起きた。
「もっと寝ててもいいよ」と伯父さんはにこにこ[#「にこにこ」に傍点]して店から声をかけた、かれはもう豆腐《とうふ》をおけに移してわらじをはいている。
「伯父さん、ぼくが商売に出ますから伯父さんはやすんでください」
と千三はいった。
「今日《きょう》は日曜だからおまえは休め、おまえは今日大事な戦争にゆかなきゃならないじゃないか」
「野球は午後ですから、朝だけぼくは売りにでます」
「いやかまわない、わしもおひるからは見物にゆくぞ、しっかりやってくれ」
「ありがとう伯父さん、それじゃ今日は休ましてもらいます」
「うむ、うまくやれよ、金持ちの学校に負けちゃ貧乏人の顔にかかわらあ[#「かかわらあ」は底本では「かからあ」]」
伯父さんはこういってらっぱをぷうと鳴らしてでていった。千三は井戸端《いどばた》へでて胸一ぱいに新鮮な空気を呼吸した、それからかれはすっぱだかになって十杯のつるべ水を浴びて身をきよめた。
「どうぞ神様、ぼくの塾《じゅく》をまもってください」
じっと目を閉《と》じて祈念するとふしぎにも勇気が次第に全身に充満する。朝飯をすまして塾へゆくと安場がすでにきていた。一|分時《ぷんじ》の違いもなく全員がうちそろうた。そこで先生が先頭になって調神社《つきのみやじんじゃ》へ参詣する、それから例の空《あ》き地《ち》へでて猛烈な練習をはじめた。
春もすでに三月のなかばである、木々のこずえにはわかやかな緑がふきだして、桜《さくら》のつぼみが輝きわたる青天に向かって薄紅《うすべに》の爪先《つまさき》をそろえている。向こうの並《な》み木《き》は朝日に照らされてその影をぞくぞくと畑道の上に映《うつ》していると、そこにはにわとりやすずめなどが嬉しそうに飛びまわる。
昨夜《ゆうべ》熟睡したのと、昨日一日練習を休んだために一同の元気はすばらしいものであった、安場はすっかり感激した。
「このあんばいではかならず勝つぞ」
一同は練習をおわって汗をふいた。
「集まれい」と先生は号令をかけた、一同は集まった。
「みんなはだかになれ」
一同ははだかになった。
「へそをだせい、おい」
一同はわらった、しかし先生はにこりともしなかった。一同はさるまたのひもをさげてへそをだした。先生は第一番の五|大洲《だいしゅう》(投手)のへそのところを押してみた。
「おい、きみは下腹《したはら》に力がないぞ、胸のところをへこまして下腹をふくらますようにせい」
「はい」
先生はつぎのクラモウのへそを押した。
「おい、大きなへそだなあ」
「ぼくはいま力を入れてつきだしてるのです」
「いかん、へそのところをつきだすのじゃない、へその下へ食べたものをみんなさげてやるんだ、いいか、胸がせかせかして負けまい負けまいとあせればあせるほど、下腹がへこんで、肩先に力がはいり、頭がのぼせるんだ、味方が負け色になったらみんなへそに気をおちつけろ、いいか、わすれるな、黙々塾《もくもくじゅく》は一名へそ学校だぞ、そう思え」
先生はひとりひとりにへそを押してみた。
「あまり押すと先生、小便がもります」と二塁手のすずめがいった。そこで先生もわらった。
その日の試合は製粉会社の裏の広場でやることになった、中学の運動場は修繕のために使用ができなかった、朝からの快晴でかつ日曜であるために見物人はどしどしでかけた、豆腐屋の覚平は早く商売をしまって肩にらっぱをかけたままでかけた、見ると正面に大きな網《あみ》をはり、白い線を大地に引いて、三ヵ所に大きなまくらのようなものをおいてある、二本の長い線の両側に見物人が陣どっているが、草の上に新聞紙を敷いて座ってるのもあり、またむしろやこしかけを持ち出したのもあった。覚平はかくまで野球が人気をひくとは思いもよらなかった。かれは野球とはどんなことをするものか知らなかった。かれは豆腐おけをになって町を歩くとき、おりおり子供等に球を頭にあてられたり背骨を打たれたりするのでむしろ野球に対して反感をいだいていた。
「すりこぎをふりまわすなんてつまらねえまねをするもんだ」
こうかれはいつもいった、だがいまきてみると子供等ばかりでなく、労働者も商人も紳士《しんし》も役人も集まっている。
「大変なことになったものだ」
かれは肝《きも》をつぶしてまごまごしていると後ろから声をかけたものがある。
「覚平さん」
ふりかえるとそれは八百屋の善兵衛であった、善兵衛はなによりも野球が好きであった、野球が好きだというよりも、野球を見ながらちびりちびりと二合の酒を飲むのが好きなのである、かれもあまり野球の知識はないほうだが、それでも覚平よりはすべてを知っていた。
「やあおまえさんもきてるね」と覚平がいった。
「おらあハア三度のご飯を四度食べても野球は見たいほうで」と善兵衛がいった。
「おれにゃわからねえ」と覚平がいった。
「じゃおらあ教えてやるべえ」と善兵衛はいった。
「ところで一杯どうです」
「これはこれは」
ふたりは一つのさかずきを献酬《けんしゅう》した。善兵衛はいろいろ野球の方法を話したが覚平にはやはりわからなかった。
「つまり球を打ってとれないところへ飛ばしてやればいいんです」
「なるほどね」
ふたりが草に座ってかつ飲みかつ語ってるうちに見物人は刻々《こっこく》に加わった。中学の生徒は制服制帽整然とうちそろうて一塁側に並んだ。その背後には中学びいきの大人《おとな》連が陣取っている、その中に光一の伯父さん総兵衛《そうべえ》がその肥《ふと》った胸を拡げて汗をふきふきさかんに応援者を狩《か》り集めていた、かれは甥《おい》の光一を勝たせたいために商売を休んでやってきたのである。
この日師範学校の生徒は黙々塾《もくもくじゅく》に応援するつもりであった、師範と中学とは犬とさるのごとく仲が悪い、だがこの応援は中止になった、いかんとなれば審判者《しんぱんしゃ》は師範の選手がたのまれたからである、で師範は中立隊として正面に陣取った。
「早く始めろ」
「なにをぐずぐずしてるんだ」
気の短い連中は声々に叫んだ、この溢《あふ》るるごとき群衆をわけて浦和中学の選手が英気さっそうとして場内に現われた、揃いの帽子ユニフォーム、靴下は黒と白の二段抜き、靴のスパイクは日に輝き、胸のマーク横文字の urachu はいかにも名を重んずるわかき武士のごとく見えた。
見物人は拍手喝采《はくしゅかっさい》した、すねあてとプロテクターをつけた肩幅の広い小原は、マスクをわきにはさみ、ミットをさげて先頭に立った、それにつづいて眉目秀麗《びもくしゅうれい》の柳光一、敏捷《びんしょう》らしい手塚、その他が一糸みだれずしずかに歩を運んでくる。
「バンザアイ、浦中万歳」
総兵衛はありったけの声で叫んだ。浦中応援隊は応援歌をうたった、手に手に持った赤い旗は波のごとく一起一伏して声調|律呂《りつりょ》はきちんきちんと揃う。
選手は入場するやいなやすぐキャッチボールを始めた、それがすむと、一同さっと散ってめいめいのシートシートに走った。やがてノックが始まった。ノッカーは慶応の選手であった山田という青年である、正確なノックは士気を一層|緊粛《きんしゅく》させた、三塁から一塁までノックして外野におよびまた内野におよぶまでひとりの過失もなかった、次第に興奮《こうふん》しきたる技術の早業《はやわざ》はその花やかな服装と、いかにも得意然《とくいぜん》たる顔色と共に見物人を圧倒した、ダブルプレー、トリプルプレー、その中に手塚のできばえはべっしてすばらしかった、かれはどんなゴロでも完全につかんだ、かれは頭上高き球をジャンプしてとった、左側に打たれた難球を転《ころ》んでつかんだ、つかむやいなや二塁に送った。その機敏さ、洒脱《しゃだつ》さはさながら軽業師《かるわざし》のごとく見物人を酔《よ》わした。
「手塚! 手塚!」
の声が鳴りわたった。ちょうどそのとき黙々塾《もくもくじゅく》の一隊が入場した。
「きたきたきた」
見物人は立ちあがってその方を見やった、同時に「わあッ」という笑声が一度に起こった。
見よ! 黙々塾の一隊! それはマークの着いた帽子もなく揃いのユニフォームもない、かれらは一様にてぬぐいで鉢巻きをしていた、かれらのきたシャツにはメリヤスもあればねずみ色に古びたフランネルもあり、腕のないじゅばんもあった、かれらは大抵《たいてい》さるまたの上にへこ帯をきりきりと巻き、結び玉を後ろへたれていた、かれらのはいてるのは車夫のゴム足袋《たび》もあれば兵隊の古靴もある。九人はことごとくちがった服装、その先頭にコーチャーの安場は七輪《しちりん》のような黒い顔をしてこけ色になった一高の制服制帽で堂々と歩いてくる。
いずれを見てもそれはいかにもみじめな一隊であった、かの花やかな浦中と対照してこれは何というきたならしい選手達だろう、見物人は戦わぬうちに勝敗を知った。
「だめだよ、つまらない」
もう見かぎりをつけて帰ったものもある。一同は肩ならしをやったうえで、さっとシートに着いた、安場は上衣《うわぎ》を脱いでノックした。それはなんということだろう。
元来晴れの戦場におけるノックには一種の秘訣《ひけつ》がある、それは難球を打ってやらぬことである、だれでも取れるような球を打ってやれば過失がない、過失がなければ気がおちつく、特に試合になれぬチームに対してはノッカーはよほど寛大に手心せねばいたずらに選手をあがらしてしまうおそれがある。
なにを思ったか安場のノックは峻辣《しゅんらつ》をきわめたものであった、難球また難球! 第一番に三塁手がミスする、ついでショートの青木、これもみごとにミスする、やりなおす、またミスする、三度、四度! 千三は次第に胸が鼓動《こどう》した、見物人は口々にののし
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