る。
「やあい、豆腐屋、だめだぞ」
 嘲笑《ちょうしょう》罵声《ばせい》を聞くたびに千三は頭に血が逆上《ぎゃくじょう》して目がくらみそうになってきた。かれが血眼《ちまなこ》になればなるほど、安場のノックが猛烈になる。やっと球をつかんだかと思うと一塁へ三尺も高い球をほうりつける。見物人はますますわらう。
 さんざんな悪罵《あくば》の中にノックはおわった。千三はいくどもいくども滑ったので身体《からだ》はどろだらけになった、その他の人々も同様であった。
 やがて審判者がおごそかに宣告した。
「プレーボール!」
 浦中は先攻である。黙々《もくもく》の投手五|大洲《だいしゅう》ははじめてまん中にたった、かれは十六歳ではあるが身長五尺二寸、投手としてはもうしぶんなき体格である、かれは手製のシャツを着ていた、それは白木綿《しろもめん》で母が縫《ぬ》うてくれたのだが、かれはその胸のところに墨黒々と片仮名で「モクモク」と右から左に書いた。かれがこれを着たとき、すずめがそれだけはよしてくれといった、かれは頑《がん》としてきかない。
「おれは日本人だから日本の文字のしるしを書くんだ、毛唐《けとう》のまねなんか死んでもしやしないよ」
 これをきいて黙々《もくもく》先生は感歎した。
「松下! おまえはいまにえらいものになるよ」
 見物人はいまかれの胸の片仮名を見て一度にどっとわらった。
「やあい、モクモク」
「モクネンジンやあい」
「モク兵衛《べえ》やあい」
 だがかれは少しもひるまなかった、かれの鉄砲のごとき速球はまたたく間にふたりを三振せしめた、つぎは柳光一である。光一はボックスに立ってきっと投手を見やった、かれは速球に対して確信がある。千三は小学校にありしとき光一のくせをよく知っている、かれは光一がかならず自分の方へ打つだろうと思った。
「打たしてもいいよ」と千三は五大洲にいった。
「よしッ」
 五大洲はまっすぐな球《たま》をだした。戞然《かつぜん》と音がした、見物人はひやりとした、球ははたして千三に向かった、千三は早くも右の方へよった。
「しめたッ」
 と思う間もなくかれは足をすべらした、喝采《かっさい》の声が起こった、球は一直線に中堅《ちゅうけん》の方へ転がった。千三の目から涙がこぼれた。光一は早くも二塁に走った。
 つぎの打手は敵の主将小原である。ホームランか三塁か、いずれにしても一点は取るだろうと人々は思った、投手五大洲はじっと腕をくんで捕手のサインを見やった。第一球は高目のカーブであった。五大洲はそのとおりに球を投げた。小原はボールを取るだろうと思いのほか、かれはおどり上がってそれを打った、球はショートの頭をはるかに高く飛んだ、千三はうしろに走った、と球は伸《の》びるかと思いのほか、途中で切れてさか落としに落ちた、ハッと思う間もない、光一は疾風《しっぷう》のごとく本塁を襲《おそ》うた、千三はあわててホームに投げた、球は高くネットを打った。
 次の打者の三振でわずかに食い止めたものの、第一回において黙々《もくもく》は一点を負けた。千三は顔をあげることができなかった、かれはなくにもなけなかった。
 ぼんやりベンチへ帰ると安場はにこにこしていた。
「おい、だいじょうぶ今日の試合はこっちのものだぞ」
「ぼくはだめだ」と千三がいった。
「いやなかなかいい、すてきにいい」と安場はいった。
 柳がダイヤモンドに立ったとき群集は一度に喝采《かっさい》した。実際柳の風采、その鷹揚《おうよう》な態度はすでに群衆を酔《よ》わした。それに対して小原の剛健|沈毅《ちんき》な気宇《きう》、ふたりの対照はたまらなく美しい。
「柳!」
「小原!」
 この声と共に学校の応援歌がとどろいた。黙々《もくもく》の第一打者は五大洲である。かれはかんかんにおこっていた。かれは頭の鉢巻きをかなぐりすてたとき、その斑々《はんぱん》たる火傷《やけど》のあとが現われたので見物人はまたまた喝采した。
 柳は静かに敵の姿勢を見やった、そうして美しいボディスイングを起こした。のびのびとした四肢《しし》や胴体のあざやかさ、さながら画に見るがよう、球が手をはなれた。五大洲がバットをふったかと見ると球は左翼の頭上はるかに飛んだ、外野手は走った、内野手も走った、陣営|騒然《そうぜん》とみだれた、小原はあっけに取られてマスクをぬぎ捨てたまま本塁に立っている。
「ホームイン」
 五大洲の一撃で一点を恢復《かいふく》した。このとき三塁の背後の松の枝高くらっぱの音が聞こえた。ついで気違《きちが》いじみた声!
「もくもく万歳! もくもく勝ったぞ」
「ぷうぷうぷうぽうぽうぷう」
 らっぱは千三の伯父覚平で、叫んでるのは善兵衛である。
 この声援と共にここにおどろくべき声援者が現われた、それは製粉会社の職工四、五十名と、木材会社その他の労働者、百姓《ひゃくしょう》、人足、馬夫《まご》! あらゆる貧民階級が一度にどっとときの声をあげた。
「もくもく勝った勝った」
 これに対して総兵衛ははじめは羽織《はおり》を脱ぎつぎは肌脱《はだぬ》ぎになりおわりにすっぱだかになっておどりだした。
「フレー、フレー、浦中!」
 野球場は見物人と見物人との応援戦となった。
 回が進んだ、一対一が二対二となり、五回、六回におよんだとき、浦中は五点、黙々《もくもく》は三点になった。二点の相違! このままで押し通すであろうか。千三は回ごとにミスをした、しかもかれは三振二つ、ピーゴロ一つを打っただけである。かれはすみに小さくなって涙ぐんでいた。覚平はもう松の枝に乗りながららっぱをふく勇気もなくなった。
「勝てないかなあ」とかれは善兵衛にいった。
「勝てそうもないなあ」と善兵衛がいった。すべての応援者も力が抜けてしまった。実際柳の成績はおどろくべきものであった、かれの球は速力において五大洲におとっているが、その縦横自在な正奇の球は回が重なるにしたがって熱気をおびてきた、どうかしてかれが敵に打たれこむときには小原がマスクをぬいでダイヤモンドへ進んでくる、そうしてこういう。
「おい、おれの鼻穴《はなのあな》になにかはいってないか見てくれ」
「なにもないよ」と柳は小原の鼻を見ていう。
「そうか、かにが一ぴきはいってるような気がするよ」
「そんなことがあるもんか」と柳はわらいだす。
 それを見て小原はまたいう。
「五大洲の頭にかにを這《は》わせてやろうか」
「なぜだ」
「天下横行だ」
「はッはッはッ」
 これで柳の気がしっかりとおちつくのである、柳は小原の老巧に感謝するのはいつもこういう点にある。
 柳ばかりでない、手塚もいろいろな快技曲技をやって見物人を酔《よ》わした、かれはもっとも得意であった、ファインプレーをやるたびに見物人の方を見やって微笑《びしょう》した、ときには帽子をぬいで応援者におじぎをした。
 千三は暗い暗い気分におされてだまっていた。かれはこのままこの場を逃げだしたいと思った。と安場がにこにこしてきた。
「そろそろいい時分だよ」
「なにが?」
「ラッキーセブンだ」
「ぼくにラッキーはない、だめだ」
「ばかいえ、きみはたしかに勝てるのに勝たずにいるんだ」
「どうして?」
「きみは大事なことをわすれてる」
「なにを? 大事なことを?」
「うむ、先生に教《おそ》わったことを」
 千三はじっと考えた。
「あッ、へそか」
「人間がへそをわすれたら、もうおしまいだ」
「そうか、うむ、ああへそだ、はッはッはッ」
 と千三はわらった。
「わかったか」
 安場はぐっと千三のへそを押した。ふしぎに千三は頭がすッと軽くなった、胸につかえたもじゃもじゃしたものが煙のごとく消えて、どっしりと腹の底に重みができた。
「見ろ! あの手塚てえやつはいまに大変なミスをやるぞ、見物人に賞《ほ》められることばかりを考えてるからね」
「やる! きっとやる」と千三はいった。このとき五大洲は安打して一塁をとった、つぎのクラモウはバントした、手塚はそれを取って二塁へ投げようか一塁へ投げようかと疑惧《ぎぐ》してるうちに双方を生かしてしまった。三番は千三である。
「ぷうぷうぽうぽう」とらっぱが鳴った。
「青木! 青木! フレイフレイ」と善兵衛がどなる。
「豆腐屋ア」と敵方がひやかす。
 千三はボックスに立つ前にバットを一ふりふった、それは先生の手製のこぶこぶだらけのバットである。かれは血眼《ちまなこ》になって光一をにらんだ。いままでかれは光一を見るとき一種の弱気を感じたのであった、かれはわが伯父が入獄中に受けた柳家の高恩を思い、わが貧をあわれんで学資をだしてやろうとした光一の友情を思うと、かれの球を打つ気合いが抜けてどうすることもできないのであった。
 いまかれは臍下《せいか》に気をしずめ、先生のバットをさげて立ったとき、はじめて野球の意義がわかった。
 私情は私情である、恩義は恩義である、だが野球は先生および全校の名誉を荷のうて戦うのである、私情をはなれて公々然と戦ってこそそれが本当の野球精神である、このバットは先生を代表したものである、ぼくが打つのでない、先生が打つのだ。
 こう思って光一の顔を見やると光一は微笑している、その男らしい口元、上品な目の中にはこういってるかのごとく見える。
「おたがいに全力を尽くして技術を戦わそうじゃないか、負けても勝ってもいい、敵となり味方となってもよく戦ってこそおたがいの本望だ」
 千三はたまらなく嬉しくなった、かれはボックスに立った。それを見て光一は思った。
「かわいそうに青木は今日《きょう》はばかにしょげかえっている、一本ぐらいは打たしてやりたいな」
 だがかれはすぐに考えなおした。
「いやいや、ぼくのお情けの球を打って喜ぶ青木ではない、そんなことはかえって青木を侮辱《ぶじょく》しかつ学校と野球道を侮辱するものだ」
 実際敵の走者が第一第二塁にある、少しもゆだんのならぬ場合である、かれは捕手のサインを見た、小原はすでに青木をあなどっている、かれは第一にウェストボールをサインした、第二もまた……第三には直球である。それは青木の予想するところであった。
 かれは光一の球が燦然《さんぜん》たる光を放ってわが思う壺《つぼ》をまっすぐにきたと思った、かれは八分の力をもってふった。
 わっという喊声《かんせい》と共に千三は球がたしかに手塚に取られたと思った、が球は手塚の靴先にバウンドした、手塚はダブルプレーを食わして喝采《かっさい》を博そうとあせったのでスタートをあやまったのである、かれはバウンドした球をつかもうとしてグローブの上ではね返した、ふたたび拾おうとしたとき二塁手と衝突《しょうとつ》して倒れた。かれは起きあがったがあわてたために球が見えなかった、球はかれの靴のかかとのところにあったのである。
「ボールがボールが」とかれは悲鳴をあげた。中堅手がそれを拾うてホームへ投げた、がこのときはすでにおそかった、五大洲とクラモウは長駆《ちょうく》してホームへ入り、千三は三塁にすべり込んだ。
「バンザアイ」
 天地をゆるがすばかりに群集は叫んだ、この叫びがおわらぬうちにすぐにふしぎな喝采が起こった。
 松の枝に乗っていた覚平と善兵衛はバンザイを叫んだ拍子《ひょうし》に両手をあげたので、松の上から転がり落ちたのであった。落ちたまま覚平はらっぱをふくことをやめなかった。
「ぷうぷうぽうぽう」
「バンザアイ」
 こうなってくると黙々隊《もくもくたい》は急に活気づいてきた。一塁手の旗竿《はたざお》は二塁打を打って千三が本塁に入った。黙々《もくもく》は一点を勝ち越した。つぎのすずめはバウンドを打って旗竿《はたざお》を三塁に進めた。
 とつぎには安場の作戦が奇功を奏《そう》し、スクイズプレーでまた一点を取った。
 浦中は必死になった、小原、柳は死に物狂いに戦った、が千三の快技はあらゆる難球を食いとめた、かれはしっかりと腹を落ちつけた、かれの頭は透明で気がほがらかであった。
 七==五
 黙々は勝った、波濤《はとう》のごとき喝采が起こった、中立を標榜《ひょう
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