ーブ一つとをだしてくれた。
「こんなにもらってもいいんですか」と千三はいった。
「ぼくは買ってもらうからいいよ」と光一はいった。
「これは新しいんですね」
「心配するなよ」
グローブ三つにボール二つ、それをもらって千三が塾《じゅく》へいったとき一同は万歳を唱えた、勉強はできなくとも貧乏人の子はスポーツがうまい、一同はだんだん上達した。
あるとき千三が豆腐を売りまわってると道で光一にあった。
「おいボールがうまくなったそうだね」
光一は例のごとく上品な目に笑《え》みをたたえていった。
「少しうまくなりました」
光一は妙にしずんだ顔をして千三の目を見つめた。
「きみ、たのむからね、ぼくに向かってていねいな言葉を使ってくれるなよ、ね、きみは豆腐屋の子、ぼくは雑貨屋の子、同じ商人《あきんど》の子じゃないか、ねえきみ、きみもぼくも同じ小学校にいたときのように対等の友達として交わりたいんだ、きみも学生だからね」
「ああ」
いまにはじめぬ光一のりっぱな態度に、千三はひどく感激した。
「それからね、きみ、きみの塾《じゅく》とぼくの学校と試合をやらないか」
「ああ、だけれども弱いから」
「弱くてもいいよ、おたがいに練習だからね」
「相談してみよう」
「きみはなにをやってるか」
「ぼくはショートだ」
「それがいい、きみは頭がよくて敏捷《びんしょう》だから」
「きみは」
「ぼくは今度からピッチャーをやってるんだよ」
「すてきだね」
「なかなかまずいんだよ、手塚はショートだ、あいつはなかなかうまいよ」
その夜千三は塾《じゅく》で一同に相談した。
「やろうやろう」というものがある。
「とてもかなわない」というものもある。議論はいろいろにわかれたが結局安場にきてもらってきめることになった。
安場は翌日やってきた。
「やれやれ、大いにやれ、親から金をもらって洋服を着て学問するやつに強いやつがあるものか、わが校の威風を示すのはこのときだ」
一同はすぐ決心した、毎夜課業がすむとこそこそそのことばかりを語りあった、だが悲しいことには貧乏人の子である、マークのついた帽子や、ユニフォームを買うことはできない、いわんやスパイクのついた靴、プロテクター、すねあてにおいてをや[#「をや」は底本では「おや」]である。
「銭がほしいなあ」と一同はいった、この話がいつしか黙々《もくもく》先生にもれた、先生は早速《さっそく》一同を集めた。
「遊戯は精神修養をもって主とするもので形式を主とするものでない、みんなはだかでやるならゆるす、おれはバットを作ってやる、はだかが寒いならシャツにさるまた、それでいい、それが当塾《とうじゅく》の塾風《じゅくふう》である」
「先生のいうとおりにします」と一同はいった。
翌日先生は庭先にでて大きなまさかりでかしの丸太を割っていた。
「先生なにをなさるんですか」と、チビ公がきいた。
「バットを作ってやるんだ」
放課後も先生はのこぎりやらかんなやらでバット製作にとりかかった。と仕立屋の小僧で呉田《くれた》というのがぼろきれをいくえにも縫《ぬ》いあわせて捕手のプロテクターを作った。すると古道具屋の子は撃剣の鉄面《めん》でマスクを作った。道具は一通りそろった。安場が日曜にきて、各シートを決めた、安場は東京からの汽車賃を倹約《けんやく》するためにいつも五里の道を歩いてくるのである。
投手は馬夫《まご》の子で松下というのである、かれは十六であるが十九ぐらいの身長があった。ちいさい時に火傷《やけど》をしたので頭に大きなあとがある、みなはそれをあだ名して五|大洲《だいしゅう》と称《しょう》した。かれの球はおそろしく速かった。
捕手は「クラモウ」というあだ名で左官の子である、なぜクラモウというかというに、いつもだまってものをいわないのは暗がりの牛のようだからである、身体《からだ》は横に肥ってかにのようにまたがあいている。一塁手は「旗竿《はたざお》」と称《しょう》せられる細長い大工の子で、二塁手は「すずめ」というあだ名で駄菓子屋の子である、すずめはボールは上手《じょうず》でないが講釈がなかなかうまい、かれは安場コーチの横合いから口をだしていつも安場にしかられた。
三塁手にはどんな球でもかならず止める橋本というのがある、かれはおそろしい勢いで一直線にとんできた球を鼻で止めたので後ろにひっくりかえった。それからかれを橋本とよばずに鼻本《はなもと》とよんだ。
外野にもなかなか勇敢な少年があった、ショートはチビ公であった、チビ公は身丈《みたけ》が低いが非常に敏捷《びんしょう》であった、かれは球を捕るには一種の天才であった、かれはわずかばかりの練習でゴロにいろいろなものがあることを感じた、大きく波を打ってくるもの、小さくきざんでくるもの、球の回転なしにまっすぐにすう[#「すう」に傍点]と地をすってくるもの、左に旋回《せんかい》するもの、右に旋回するもの、約十種ばかりの性質によって握《にぎ》り方をかえなければならぬ。チビ公は無意識ながらもそれを感じた。
一生懸命に汗を流してけずり上げた先生のバットはあまり感心したものでなかった。それはあらけずりのいぼだらけで途中にふしがあるものであった。
「なんだこれは」
「すりこぎのようだ」
「犬殺しの棒だ」
「いやだな、おまえが使えよ」
「おれもいやだ」
少年共はてんでにしりごみをした。さりとてこれを使わねば先生の機嫌が悪い。一同は途方《とほう》に暮れた。
「ぼくのにする」とチビ公はいった。「このバットには先生がぼくらを愛する慈愛《じあい》の魂がこもってる、ぼくはかならずこれでホームランを打ってみせるよ、ぼくが打つんじゃない先生が打つんだ」
九
浦和中学と黙々塾《もくもくじゅく》が野球の試合をやるといううわさが町内に伝わったとき人々は冷笑した。
「勝負になりやしないよ」
実際それは至当《しとう》な評である、浦和中学は師範学校と戦っていつも優勝し、その実力は埼玉県を圧倒しているのだ、昨日《きのう》今日《きょう》ようやく野球を始めた黙々塾《もくもくじゅく》などはとても敵し得《う》べきはずがない。それに浦中の捕手は沈毅をもって名ある小原である。投手の柳は新米だがその変化に富める球と頭脳《ずのう》の明敏ははやくも専門家に嘱目《しょくもく》されている、そのうえに手塚のショートも実際うまいものであった、かれはスタートが機敏で、跳躍《ジャンプ》して片手で高い球を取ることがもっとも得意であった。
「練習しようね」と柳は一同にいった。
「練習なんかしなくてもいいよ、黙兵衛《もくべえ》のやつらは相手にならんよ」と手塚がいった。
「そうだそうだ」と一同は賛成した。だが二、三日経ってから小原が顔色をかえて一同を招集した。
「ぼくは昨日《きのう》黙々《もくもく》の練習を見たがね、火のでるような猛練習だ、それに投手の五大洲はおそろしく速力《スピード》のある球をだす、あのうえにもしカーブがでたらだれも打てやしまい、ショートのチビ公もなかなかうまいし、捕手《ほしゅ》のクラモウはロングヒットを打つ、なかなかゆだんができないよ、一たい今度の試合は敵に三分の利があり味方に三分の損《そん》がある、敵は新米だから負けてもさまで恥にならないが、味方は古い歴史を持っているから、もし負ければ世間の物笑いになるよ」
「あんなやつはだいじょうぶだよ」と手塚はいった。
「そうじゃない、もしひとりでも傑出した打手があってホームランを三本打てば三点とられるからね、勝負はそのときの拍子《ひょうし》だ、強いからってゆだんがならない」
「だからぼくは練習をしようというんだ、青木千三は小学校時代には実にうまかったからね、身体《からだ》が小さいがおそろしいのはかれだよ」
と光一はいった。
「豆腐屋のごときは眼中にないね」と手塚がいった。
「それがいけないよ手塚君、きみはうまいけれども敵をあなどるのは悪いくせだ、ぼくは青木の方がぼくよりうまいと思う」
「きみは青木を買いかぶってるよ、あいつはまだ腰が決まらない」
「いざとなれば強くなるよ」
「弱虫だねきみは」と手塚は嘲笑した。
「君よりか青木の方がうまい」と光一も癪《しゃく》にさわっていった。
「あんなやつにくらべられてたまるものか」
多人数の前なので手塚は虚勢を張っていった。
「そうじゃない手塚」と小原はどなった。「おまえはいつもうまいと人に見られようと思って、片手で球をとったりする、あれはよくないぞ、へたに見られてもいいから健実でなけりゃいけない」
先輩の一言に手塚は顔を赤《あから》めてだまった。その日から練習をはじめた。
一方|黙々塾《もくもくじゅく》では学業のひまひまに猛練習をつづけた。だが家業がいそがしいために練習にくることのできない者もあるので、人数はいつもそろわなかった、安場は日曜以外には帰省しない、ここにおいて黙々先生が自身に空《あ》き地《ち》へ出張した、先生は野球のことをよくは知らない、がかれは撃剣の達人なので打撃はうまかった、かれはさるまた一つとシャツ一枚の姿で、自製のバットでノックをする、それは実に奇妙ふしぎなノックであった、先生の打つ球には方向が一定しない、三塁へいったり一塁へいったり、ゴロかと思えば外野へ飛んだり、ファウルになったり、ホームランになったりする。
「先生! シートノックはシートの方へ打ってください」と千三が歎願した。
「ばかッ、方向がきまってるならだれでもとれる、敵はどこへ打つかわかりゃしないじゃないか」
先生はこういって長いバットを持って力のありたけで打つのだからたまらない、鉄砲玉のようなおそろしく早い球はぶんぶんうなって飛んでくる。選手はいずれも汗だらけになって走りまわる。それがおわるとフリーバッティングをやる、それも投球するものは先生である。先生の球はノックのごとくコントロールが悪い、右に左に頭上高く、あるいは足元にバウンドし、あるいは腰骨を打つ。
「先生! まっすぐな球をください」と千三がいう。
「ばかッ敵はいつもまっすぐに投《ほう》るかよ」
それがおわると先生は千三に投球させて自分で五、六本を打つ。だが先生の造ったバットはこぶこぶだらけなので、打った球はみんなファウルになり、チップになる。で先生が満足に打つまで球を投《ほう》らなければ機嫌が悪い、ようやく直球を一本打つと先生はにっこり[#「にっこり」に傍点]と子どもらしくわらう、そうしてこういう。
「おれの造ったバットはなかなかいいわい」
練習がすむと先生は一同にいもを煮《に》てくれる、それが何よりの楽しみであった。だが先生は野球のために決して学課をおろそかにしなかった、もし生徒の中に学課をおこたる者があると先生は厳然として一同を叱《しか》りつける。
「野球をやめてしまえッ」
このために生徒は一層《いっそう》学課にはげまざるを得なかった。
日がだんだん迫《せま》ってきた、ある日安場がきた、コーチがすんで一同が去った後、先生はいかにも心配そうに安場にいった。
「今度中学校に勝てるだろうか」
「さあ」と安場は躊躇《ちゅうちょ》した。
「どうかして勝たしてもらいたい、わしが生徒に野球をゆるしたのは少し考えがあってのことだ、この町のものは官学を尊敬して私学を軽蔑《けいべつ》する、いいか、中学校や師範学校の生徒はいばるが、黙々塾《もくもくじゅく》の生徒は小さくなっている、なあ安場、きみもおぼえがあるだろう」
「そうです、ぼくもずいぶん中学校のやつらにばかにされました」
「そうだ、金があって時間があって学問するものは幸福だ、わしの塾《じゅく》の生徒はみんな不幸なやつばかりだ、同じ土地に生まれ同じ年ごろでありながら、ただ、金のために甲《こう》は意気|揚々《ようよう》とし乙《おつ》は悄然《しょうぜん》とする、こんな不公平な話はないのだ、いいか安場、そこでだ、わしは生徒共の肩身を広くさしてやりたい、金ずくではかなわない、かれらの学校は洋風の堂々たるものだ、わしの塾《じゅく》は壁が落ち屋根がも
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