の中心点である、そうだ、中心点だ、車の軸《じく》だ、国家を支える大黒柱だ、ギリシャの神話にアトラス山は天が墜《お》ちるのを支《ささ》えている山としてある。天がおちるのを支えるのは英雄だ、花だなんてそんな浮わついた考えではまだ語るにたらん。もっと修養しろ馬鹿ッ」
すべてこういう風である、どんなにばかといわれても安場はそれを喜んでいた。
「先生はありがたいな」
かれはいつもこういった。かれとチビ公はすぐに親友になった。おりおりふたりは郊外へでて長い長い堤の上を散歩した。寒い寒い風がひゅうひゅう野面《のづら》をふく、かれあしはざわざわ鳴って雲が低くたれる、安場は平気である。かれは高い堤に立って胸一ぱいにはって高らかに歌う。
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ああ玉杯《ぎょくはい》に花うけて、緑酒《りょくしゅ》に月の影《かげ》やどし、
治安の夢《ゆめ》にふけりたる、栄華《えいが》の巷《ちまた》低く見て、
向ヶ岡《むこうがおか》にそそり立つ、
五寮《ごりょう》の健児《けんじ》意気高し。……
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バリトンの声であるが、量は豊かに力がみちている。それは遠くの森に反響し、近くの野面《のづら》をわたり、べきべきたる落雲を破って、天と地との広大無辺な間隙を一ぱいにふるわす、チビ公はだまってそれを聞いていると、体内の血が躍々《やくやく》と跳《おど》るような気がする。自由豪放な青春の気はその疲《つか》れた肉体や、衰《おとろ》えた精神に金蛇銀蛇の赫耀《かくよう》たる光をあたえる。
「もっとやってくれ」とかれはいう。
「うむ、よしッ」
安場は七輪《しちりん》のような顔をぐっと屹立《きつりつ》させると同時に鼻穴をぱっと大きくする、とすぐいのししのようにあらい呼吸《いき》をぷうとふく。
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ふようの雪の精をとり、芳野《よしの》の花の華《か》をうばい、
清き心のますらおが、剣《つるぎ》と筆とをとり持ちて、
一たび起《た》たば何事か、
人生の偉業《いぎょう》成らざらん。
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うたっていくうちにかれの顔はますます黒く赤らみ、その目は輝き、わが校を愛する熱情と永遠の理想と現在力学の勇気と、すべての高邁《こうまい》な不撓《ふとう》な奮闘的な気魄《きはく》があらしのごとく突出してくる。チビ公は涙をたれた。
「きみはな、貧乏を気にしちゃいかんぞ」と安場はいった。「貧乏ほど愉快なことはないんだ」
かれはチビ公のかたわらに座っていいつづけた。
おれは貧乏だから書物が買えなかった。おれは雑誌すら読んだことはなかった。すると先生はおれに本を貸してくれた。先生の本は二十年も三十年も前の本だ、先生がおれに貸してくれた本はスミスの代数《だいすう》とスウイントンの万国史と資治通鑑《しじつがん》それだけだ、あんな本は東京の古本屋にだってありやしない。だが新刊《しんかん》の本が買えないから、古い本でもそれを読むよりほかにしようがなかった、そこでおれはそれを読んだ、友達が遊びにきておれの机の上をジロジロ見るとき、おれははずかしくて本をかくしたものだ、太政官印刷《だじょうかんいんさつ》なんて本があるんだからな、実際はずかしかったよ。おれはこんな時代おくれの本を読んでも役に立つまいと思った、だが、先生が貸してくれた本だから読まないわけにゆかない、それ以外には本がないんだからな、そこでおれは読んだ。最初はむずかしくもありつまらないと思ったが、だんだんおもしろくなってきた、一日一日と自分が肥《ふと》っていくような気がした。おれは入学試験を受けるとき、ほんの十日ばかり先生が準備復習をしてくれた。
「こんな旧式《きゅうしき》なのでもいいのか知らん」とおれは思った。
「だいじょうぶだいけ」と先生がいった、おれはいった、そうしてうまく入学した。
「なあチビ公」
安場はなにを思ったか目に一ぱい涙をたたえた。
「試験の前日、先生はおれにこういった」
「安場、腕ずもうをやろう」
「ぼくですか」
「うむ」
先生はがちょうのように首が長く、ひょろひょろやせて、年が老いている。おれはこのとおり力が自慢だ、負かすのは失礼だと思ったが、さりとて故意《こい》に負けるとへつらうことになる、互角《ごかく》ぐらいにしておこうと思った。
「やりましょう」
先生は長いひざを開いて畳《たたみ》にうつぶしになった。さながら栄養不良のかわずのよう!
「さあこい」
「よしッ」
おれもひじを畳についた、がっきと手と手を組んだ、おれはいい加減《かげん》にあしらうつもりであった、先生の痩《や》せた長い腕がぶるぶるふるえた。
「弱虫! なき虫! いも虫! へっぴり虫!」と先生はいった。
「先生こそ弱虫です」
「なにを!」
「どっこい」
おれは少しずつ力をだして不動直立の態度をとるつもりであった。だが先生の押す力がずっとひじにこたえる。
「弱いやつだ、青年がそれでどうする、米の飯を食わせておくのはおしいものだ、やい、いも虫、なき虫、わらじ虫!」
あまりしつこく虫づくしをいうのでおれもちょっと癪《しゃく》にさわった。
「いいですか、本気をだしますぞ」
「よしッ、虫けらの本気はどんなものか、へっぴり虫!」
「よしッ」
おれは満身の力をこめて一気に先生を押したおそうとした、先生の腕が少しかたむいた。
「いいかな」
先生はこういって、「うん」と一つうなった、たよたよとした細い腕はがきっと組んだまま大盤石《だいばんじゃく》!
「おやッ」
おれは頭を畳《たたみ》にすりつけ、左の掌《てのひら》で畳をしっかとおさえ肩先に力をあつめて押しだした。
「虫があばれるあばれる」と先生はげらげらわらった。おれはどうもふしぎでたまらない。負けるはずがないのだ。
「いいかな」
先生はこういっておれのこぶしをひた押しに倒してしまった。
おれは汗をびっしょりかいて、ふうふう息をはずませた。
「どうだ」
首を傾《かし》げてふしぎがってるおれの顔を見て先生はわらった。
「ふしぎですな」
「おまえはばかだ」
「なんといわれてもしようがありません」
「いよいよジャクチュウかな」
「ジャクチュウとはなんですか」
「弱虫だ、はッはッはッ」
「先生はどうして強いんですか」
「わしが強いんでない、おまえがジャクチュウなんだ」
「ぼくはそんなに弱いはずがないのです」
「おまえはどこに力を入れてるか」
「ひじです」
「腕をだしてみい」
先生のひょろひょろした青ざめた腕とおれのハチ切れそうに肥った円い赤い腕が並んだ。
「ひじとひじの力なら私の方がとてもかなわないはずじゃないか」と先生がいった。
「じゃ先生は?」
先生はにっこり笑って、胸の下を指さした。
「腹ですか」
「うむ、力はすべて腹から出るものだ、西洋人の力は小手先からでる、東洋人の力は腹からでる、日露戦争《にちろせんそう》に勝つゆえんだ」
「うむ」
「学問も腹だ、人生に処する道も腹だ、気が逆上《ぎゃくじょう》すると力が逆上して浮きたつ、だから弱くなる、腹をしっかりとおちつけると気が臍下丹田《せいかたんでん》に収《おさ》まるから精神爽快《せいしんそうかい》、力が全身的になる、中心が腹にできる、いいかおまえはへそをなんと思うか」
「よけいなものだと思います」
「それだからいかん、人間の身体《からだ》のうちで一番大切なものはへそだよ」
「しかしなんの役にも立ちません」
「そうじゃない、いまのやつらはへそを軽蔑《けいべつ》するからみな軽佻浮薄《けいちょうふはく》なのだ、へそは力の中心点だ、人間はすべての力をへそに集注すれば、どっしりとおちついて威武も屈《くっ》するあたわず富貴も淫《いん》するあたわず、沈毅《ちんき》、剛勇、冷静、明智になるのだ、孟子《もうし》の所謂《いわゆる》浩然《こうぜん》の気はへそを讃美した言葉だ、へそだ、へそだ、へそだ、おまえは試験場で頭がぐらぐらしたらふところから手を入れてしずかにへそをなでろ」
おれは試験場でへそをなでなかったが、難問題《なんもんだい》にぶつかったときに先生のこの言葉を思いだした、そうして、
「へそだ、へそだ、へそだ」と口の中でいった、と急におかしくなってふしぎに気がしずまる、かっと頭にのぼせた熱がずんとさがって下腹に力がみちてくる。
旧式の本、それを読んだことはいわゆる試験準備のために印刷された本よりもはるかに有効であった。
どんな本でも、くわしくくわしくいくどもいくども読んで研究すればすべての学問に応用することができる、数多くの本を、いろいろざっと見流すよりたった一冊の本を精読する方がいい。
おれが受験から帰ってくると先生はぼくを待ちかねている、おれは試験の問題とおれの書いた答案を語る、先生はそれについていちいち批評してくれた、そうしておれににわとりのすき焼きをご馳走《ちそう》してくれる。
「うんと滋養物《じようぶつ》を食わんといかんぞ」
こう先生がいう、七日のあいだに先生が大切に飼《か》っていた三羽のにわとりがみんななくなった。
「おれは先生の恩はわすれない、もし先生のような人がこの世に十人もあったら、すべての青年はどんなに幸福だろう、町のやつは……師範学校や中学校のやつらは先生の教授法を旧式だという、旧式かも知らんが先生はおれのようなつまらない人間でもはげましたり打ったりして一人前にしたててくれるからね」
安場はこういって口をつぐんだ、かれはたえきれなくなってなき出した。
「なあ青木、おまえも責任があるぞ、先生がおまえをかわいがってくれる、先生に対してもおまえは奮発しろよ」
「やるとも」千三も無量の感慨に打たれていった。
「さあ帰ろう」
夕闇《ゆうやみ》がせまる武蔵野《むさしの》のかれあしの中をふたりは帰る。
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花さき花はうつろいて、露おき露のひるがごと、
星霜《せいそう》移り人は去り、舵《かじ》とる舵手《かこ》はかわるとも、
わが乗る船はとこしえに、理想の自治に進むなり。
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日はとっぷりと暮れた、安場ははたと歌をやめてふりかえった。
「なあおい青木、一緒《いっしょ》に進もうな」
「うむ」
たがいの顔が見えなかった。
「おれも早くその歌をうたいたいな」とチビ公はいった、安場は答えなかった、ざわざわと枯れ草が風に鳴った。
「おれの歌よりもなあ青木」と安場はいった。「おまえのらっぱの方が尊いぞ」
「そうかなあ」
「進軍のらっぱだ」
「うむ」
「いさましいらっぱだ、ふけッ大いにふけ、ふいてふいてふきまくれ」
ひゅうひゅう風がふくので声が散ってしまった。
幸福の神はいつまでも青木一家にしぶい顔を見せなかった、伯父さんとチビ公の勉強によって一家は次第に回復した。チビ公の母は病気がなおってから店のすみにわずかばかりの雑穀《ざっこく》を並べた、黙々《もくもく》先生はまっさきになって知人朋友を勧誘《かんゆう》したので、雑穀は見る見る売れだした。生蕃親子がこの地を去ってからもはやチビ公を迫害するものはない、店はますます繁昌し、大した収入がなくとも不自由なく暮らせるようになった。
安場は日曜ごとに浦和へきた、そうして千三にキャッチボールを教えたりした、元来|黙々塾《もくもくじゅく》に通学するものはすべて貧乏人の子で、でっち、小僧、工場通いの息子、中には大工や左官の内弟子もあった。かれらはみんな仲よしであった、ハイカラな制服制帽を着ることができぬので、大抵《たいてい》和服にはかまをはいていた。
チビ公は日曜ごとには朝から晩まで遊ぶことができるようになった、塾の生徒は師範学校や中学の生徒のように費用に飽《あ》かして遠足したり活動を見にゆくことができないのでいつも塾《じゅく》の前の広場でランニング、高跳びなどをして遊んでいた。それが安場がきてからキャッチボールがはやりだした、安場は東京の友達からりっぱなミットをもらってきてくれた、チビ公は光一のところへグローブの古いやつをもらいにいった。
「あるよ、いくらでもあるよ」
光一は古いグローブ二つと新しいグロ
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