皇国《こうこく》の正統をあきらかにす」
「北畠親房《きたばたけちかふさ》を知ってるか」
「よくは知りません、歴史で少しばかり」
「日本第一の忠臣を知らんか、そのあとを読め」
「親房《ちかふさ》の第二子|顕信《あきのぶ》の子|守親《もりちか》、陸奥守《むつのかみ》に任ぜらる……その孫|武蔵《むさし》に住み相模《さがみ》扇ヶ谷《おうぎがやつ》に転ず、上杉家《うえすぎけ》に仕《つか》う、上杉家《うえすぎけ》滅《ほろ》ぶるにおよび姓《せい》を扇《おうぎ》に改め後|青木《あおき》に改む、……青木竜平《あおきりゅうへい》――長男|千三《せんぞう》……チビ公と称す、懦弱《だじゃく》取るに足らず……」
 なべのいもは湯気を立ててふたはおどりあがった。先生はじっと千三の顔を見つめた。
「どうだ」
「先生!」
「きみの父祖は南朝《なんちょう》の忠臣だ、きみの血の中に祖先の血が活きてるはずだ、きみの精神のうちに祖先の魂《たましい》が残ってるはずだ、君は選ばれたる国民だ、大切な身体《からだ》だ、日本になくてはならない身体だ、そうは思わんか」
「先生!」
「なにもいうことはない、祖先の名をはずかしめないように奮発《ふんぱつ》するか」
「先生」
「それとも生涯《しょうがい》豆腐屋でくちはてるか」
「先生! 私は……」
「なにもいうな、さあいもを食ってから返事をしろ」
 先生はいものなべをおろした、庭はすでに暮れて落ち葉がさらさらと鳴る、七輪の火が風に吹かれてぱっと燃えあがると白髪《はくはつ》白髯《はくぜん》の黙々《もくもく》先生の顔とはりさけるようにすずしい目をみひらいた少年の赤い顔とが暗の中に浮きだして見える。

         八

 黙々《もくもく》先生に系図を見せられたその夜、千三はまんじりともせずに考えこんだ、かれの胸のうちに新しい光がさしこんだ。かれは嬉しくてたまらなかった、なんとも知れぬ勇気がひしひしおどり出す。かれは大きな声をだしてどなりたくなった。
 眠らなければ、明日《あした》の商売にさわる、かれは足を十分に伸ばし胸一ぱいに呼吸をして一、二、三、四と数えた。そうしてかれはあわいあわい夢に包まれた。
 ふと見るとかれはある山路を歩いている。道の両側には桜《さくら》の老樹が並んでいまをさかりにさきほこっている。
「ああここはどこだろう」
 こう思って目をあげると谷をへだてた向こうの山々もことごとく桜である。右も桜左も桜、上も桜下も桜、天地は桜の花にうずもれて白《はく》一白《いっぱく》、落英《らくえい》繽紛《ひんぷん》として顔に冷たい。
「ああきれいなところだなあ」
 こう思うとたんにしずかに馬蹄《ばてい》の音がどこからとなくきこえる。
「ぱかぱかぱかぱか」
 煙のごとくかすむ花の薄絹《うすぎぬ》を透《とお》して人馬の行列が見える。にしきのみ旗、にしきのみ輿《こし》! その前後をまもるよろい武者! さながらにしき絵のよう。
 行列は花の木の間を縫《ぬ》うて薄絹の中から、そろりそろりと現われてくる。
「下に座って下に座って」
 声が聞こえるのでわきを見るとひとりの白髪の老翁《ろうおう》が大地にひざまずいている。
「おじいさんこれはなんの行列ですか」
 こうたずねるとおじいさんは千三の顔をじっと眺めた、それは紙幣で見たことのある武内宿禰《たけのうちのすくね》に似た顔であった。
「あれはな、後村上天皇《ごむらかみてんのう》がいま行幸《みゆき》になったところだ」
「ああそれじゃここは?」
「吉野《よしの》だ」
「どうしてここへいらっしったのです」
 じいさんは千三をじろりと見やったがその目から涙がぼろぼろこぼれた。一円|紙幣《さつ》がぬれては困《こま》ると千三は思った。
「逆臣《ぎゃくしん》尊氏《たかうじ》に攻《せ》められて、天《あめ》が下《した》御衣《ぎょい》の御袖《おんそで》乾《かわ》く間も在《おわ》さぬのじゃ」
「それでは……これが……本当の……」
 千三は仰天して思わず大地にひざまずいた。このとき行列が静々とお通りになる。
「まっ先にきた小桜縅《こざくらおどし》のよろい着て葦毛《あしげ》の馬に乗り、重籐《しげどう》の弓《ゆみ》を持ってたかの切斑《きりふ》の矢《や》を負い、くわ形《がた》のかぶとを馬の平首につけたのはあれは楠正行《くすのきまさつら》じゃ」
 とおじいさんがいった。
「ああそうですか、それと並んで紺青《こんじょう》のよろいを着て鉢巻きをしているのはどなたですか」
「あれは正行《まさつら》の従兄弟《いとこ》和田正朝《わだまさとも》じゃ」
「へえ」
「そら御輿《みこし》がお通りになる、頭をさげい、ああおやせましましたこと、一天万乗《いってんばんじょう》の御君《おんきみ》が戦塵《せんじん》にまみれて山また山、谷また谷、北に南に御《おん》さすらいなさる。ああおそれ多いことじゃ」
 おじいさんは頭を大地につけてないている、千三は涙が目にたまって玉顔《ぎょくがん》を拝むことができなかった。
「御輿《みこし》の御後に供奉《ぐぶ》する人はあれは北畠親房《きたばたけちかふさ》じゃ」
「えっ?」
 千三は顔をあげた。
 赤地にしきの直垂《ひたたれ》に緋縅《ひおどし》のよろい着て、頭に烏帽子《えぼし》をいただき、弓と矢は従者に持たせ、徒歩《かち》にて御輿《みこし》にひたと供奉《ぐぶ》する三十六、七の男、鼻高く眉《まゆ》秀《ひい》で、目には誠忠の光を湛《たた》え口元には知勇の色を蔵《ぞう》す、威風堂々としてあたりをはらって見える。
 千三は呼吸《いき》もできなかった。
「いずれも皆忠臣の亀鑑《きかん》、真の日本男児じゃ、ああこの人達があればこそ日本は万々歳まで滅びないのだ」
 こうおじいさんがいったかと思うととっとと走っていく、その早いこと百メートル五秒間ぐらいである。
「待ってくださいおじいさん、お紙幣《さつ》になるにはまだ早いから」
 こういったが聞こえない。おじいさんは桜《さくら》の中に消えてしまった。
 にわかにとどろく軍馬の音! 法螺《ほら》! 陣太鼓《じんだいこ》! 銅鑼《どら》ぶうぶうどんどん。
 向こうの丘《おか》に現われた敵軍の大勢! 丸二つ引きの旗をへんぽんとひるがえして落日を後ろに丘《おか》の尖端《とっぱな》! ぬっくと立った馬上の大将《たいしょう》はこれ歴史で見た足利尊氏《あしかがたかうじ》である。
 すわ[#「すわ」に傍点]とばかりに正行《まさつら》、正朝《まさとも》、親房《ちかふさ》の面々|屹《きっ》と御輿《みこし》を護《まも》って賊軍をにらんだ、その目は血走り憤怒《ふんぬ》の歯噛《はが》み、毛髪ことごとく逆立《さかだ》って見える。
「やれやれッ逆賊《ぎゃくぞく》をたたき殺せ」と千三は叫んだ。
「これ千三、これ」
 母の声におどろいて目がさめればこれなん正《まさ》しく南柯《なんか》の夢《ゆめ》であった。
「どうしたんだい」
「どうもこうもねえや、畜生《ちくしょう》ッ、足利尊氏《あしかがたかうじ》の畜生ッ」と千三はまだ夢中である。
「喧嘩の夢でも見たのか、足利《あしかが》の高さんと喧嘩したのかえ」
「なんだって畜生ッ、高慢な面《つら》あしやがって、天子様に指でも指してみろ、おれが承知しねえ、豆腐屋だと思って尊氏《たかうじ》の畜生ばかにするない」
「千三どうしたのさ、千三」
「お母《かあ》さんですか」
 千三はこういってはじめてわれにかえった。母はじっと千三を見つめた、千三の顔は次第次第にいきいきと輝いた。
「お母さん、ぼくは勉強します」
 母はだまっている。
「ぼくは今日《きょう》先生にぼくのご先祖のことを聞きました。北畠顕家《きたばたけあきいえ》、親房《ちかふさ》……南朝《なんちょう》の忠臣です。その血を受けたぼくはえらくなれない法がありません」
「だけれどもね、このとおり貧乏ではおまえを学校へやることもできずね」
 母はほろりとした。
「貧乏でもかまいません。お母さん、顕家《あきいえ》親房《ちかふさ》はほんのはだか身でもって奥州や伊勢や諸所方々で軍《いくさ》を起こして負けては逃げ、逃げてはまた義兵を集め、一日だって休むひまもなく天子様のために働きましたよ、それにくらべると日に三度ずつご飯を食べているぼくなぞはもったいないと思います。ねえお母さん、ぼくはいま夢を見たんです。先祖の親房《ちかふさ》という人はじつにりっぱな顔でした、ぼくのようにチビではありませんよ、尊氏《たかうじ》のほうをきっとにらんだ顔は体中忠義の炎《ほのお》が燃えあがっています。ぼくだって忠臣になれます。ぼくだってね、チビでも忠臣になれないことはないでしょう」
「いい夢を見たね」
 母は病みほおけた身体《からだ》を起こして仏壇に向かっておじぎした。
 千三は生まれかわった。翌日からなにを見ても嬉しい。かれは外を歩きながらそればかりを考えている。
「やあ向こうから八百屋の半公がきたな、あれも忠臣にしてやるんだ。おれの旗持ちぐらいだ、ああぶりき屋の浅公、あれは母親の財布《さいふ》をごまかして活動にばかりいくが、あれもなにかに使えるから忠臣にしてやる、やあ酒屋のブルドッグ、あれは馬のかわりにならないから使ってやらない」
 黙々《もくもく》先生はチビ公が急に活気づいたのを見てひとりほくほく喜んでいた。
 ある日かれはひとりの学生を先生に紹介《しょうかい》された。それは昨年第一高等学校に入学した安場五郎《やすばごろう》という青年である。黙々塾《もくもくじゅく》をでて高等学校へはいれたのは安場ひとりきりである。先生は安場が好きであった。色が赤黒く顔は七輪に似て、ようかん色になった制服を着て腰にてぬぐいをさげ、帽子はこけ色になっている。かれは一年のあいだに身体《からだ》がめきめきと発達したので制服の腕や胴は身体の肉がはちきれそうに見える。かれは代書人の息子《むすこ》である。かれは東京から家へ帰るとすぐ黙々先生のご機嫌うかがいにくる。
「先生ただいま」
「うむ帰ったか」
 先生は注意深くかれの一挙一動を見る。
「学校はどうだ」
 まず学校のようすをきき、それから友達のことをきく。
「どんな友達ができたか」
「あんこうというやつがあります。口がおそろしく大きいんでりんごを皮ごと二口で食ってしまいます。それからフンプンというやつがあります。これは一年に一ぺんもさるまたを洗濯しませんから、いつでもフンプンとしています。それからまむしというやつ、これは生きたへびを頭からかじります」
「ふん、勇敢だな」
 先生はにこにこする。
「この三人はみんなできるやつです。頭がおそろしくいいやつです、三人とも政治をやるといってます」
「たのもしいな、きみとどうだ」
「ぼくよりえらいやつです」
「そうか」
 先生が一番注意をはらうのは友達のことである。かれはそのまむしやフンプンやあんこうがどんな話をしてどんな遊びをしてどんな本を読んでるかまでくわしくきいた。
「活動を見るか」
「さかんに見ましたが、あれは非常に下卑たものだとわかったからこのごろは見ません」
「それがいい」
 先生は安場がいつも友達の自慢をするのをすこぶる嬉しそうに聞いていた。人の悪口をいったり、自慢をいったりするのは先生のもっともこのまざるところであった。
 安場は実際先生思いであった。かれは帰省中には毎朝かならず先生をたずねて水をくみ飯をたき夜の掃除をした。先生は外へ出ると安場の自慢ばかりいう。
「あいつはいまに大きなものになる」
 先生はわずかばかりの汽車賃があればそっと東京へ出て一高を視察にでかける、そうして安場がどんな生活をしているかを人知れず監視するのであった。そのくせかれは安場に向かっては一度もほめたことはない。
「きみは英雄をなんと思うか」
「英雄は歴史の花です」と安場は即座に答える。
「カアライルをまねてはいかん。英雄は花じゃない、実である。もし花であるならそれは泛々《はんぱん》たる軽薄の徒といわなきゃならん。名誉、物質欲、それらをもって目的とするものは真の英雄とはいえないぞ、いいか。英雄は人類
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