う報告をもたらした。
「校長が立憲党のために運動したので諭旨免官《ゆしめんかん》となるんだそうだ」
 これは生徒にとってあまりにふしぎなことであった。
「どういうわけだ」
「校長はね、柳の家へしばしば出入りしたのを見た者があるんだよ」
 と手塚がいった。「それで阪井の親父《おやじ》が校長|排斥《はいせき》をやったんだ」
「それは大変な間違《まちが》いだ」と光一は叫んだ。「先生がぼくの家へきたのは二度だ、それは学校で負傷させたのは校長の責任だというので校長自身でぼくの父にあやまりにきたのと、いま一つはぼくの見舞いのためだ、先生はぼくの枕元《まくらもと》にすわってぼくの顔を見つめたままほかのことはなんにもいわない、ぼくの父とふたりで話したこともないのだ」
「そりゃ、そうだろうとも」と人々はいった。
「もしそれでも校長が悪いというなら、われわれはかくごを決めなきゃならん」と捕手の小原がいった。
「無論だ、学校を焼いてしまえ」とライオンがいった。
「へんなことをいうな」と捕手はライオンをしかりつけて、「こんどこそはだぞ、諸君! 関東男児の意気を示すのはこのときだ、いいか諸君! 天下広しといえども久保井《くぼい》先生のごとき人格が高く識見があり、われわれ生徒を自分の子のごとく愛してくれる校長が他にあると思うか、この校長ありてこの職員ありだ、どの先生だってことごとくりっぱな人格者ばかりだ、久保井先生がいなくなったら第一カトレット先生がでてゆく、三角先生もでてゆく、山のいも先生も、ナポレオン先生……」
「最敬礼も」とだれかがいった。
「まじめな話だよ」と捕手は怫然《ふつぜん》としてとがめた、そうしてつづけた。
「いいか諸君、久保井先生がなければ学校がほろびるんだぞ、ぼくらはなんのために漢文や修身や歴史で古今の偉人の事歴を学んでるのだ、『士《し》はおのれを知るもののために死す』だ、いいかぼくらは久保井先生のため浦和中学のため、死をもってあたらなきゃならん」
「それでなければ男じゃないぞ」と叫んだものがある。
 その日学校の広庭に全校の生徒が集まった、そうして一級から三人ずつの委員を選定して事実をたしかめることにした、もしそれが事実であるとすれば、全校|連署《れんしょ》のうえ県庁へ留任を哀願しようというのである。光一は二年の委員にあげられた。
 光一は悲しかった、かれの心は政党に対する憤怒《ふんぬ》に燃えていた。どういう理由か知らぬが、校長がぼくの家へ見舞いにきただけで政党が校長を排斥するのはあまりに陋劣《ろうれつ》だ。
 小原のいうごとく久保井先生のようなりっぱな校長はふたたび得られない。いまの先生方のようなりっぱな先生もふたたび得られない。それにかかわらず学校がめちゃめちゃになる、それではぼくらをどうしようというんだろう、政党の都合がよければ学校がどうなってもかまわないのだろうか。
 そんなばかな話はない、これは正義をもって戦えばかならず勝てる、父に仔細《しさい》を話してなんとかしてもらおう。
 いろいろな感慨《かんがい》が胸にあふれて歩くともなく歩いてくると、かれは町の辻々《つじつじ》に数名の巡査が立ってるのを見た、町はなにやら騒々しく、いろいろな人が往来し、店々の人は不安そうに外をのぞいている。
「なにがはじまったんだろう」
 こう考えながら光一は家の近くへくると、向こうから伯父さんの総兵衛が急ぎ足でやってきた、かれはしまの羽織《はおり》を着てふところ一ぱいなにか入れこんで、きわめて旧式な山高帽《やまたかぼう》をかぶっていた。伯父さんはいつも鳥打帽《とりうちぼう》であるが、葬式や婚礼のときだけ山高帽をかぶるのであった、ほていさんのようにふとってほおがたれてあごが二重にも三重にもなっている、その胸のところにはくまのような毛が生えている、光一は子どものときにいつも伯父さんにだかれて胸の毛をひっぱったものだ。
「伯父さんどこへいってきたの」と光一はきいた。
「ああ光一か、おれは今町会|傍聴《ぼうちょう》にいってきた、おもしろいぞ、うむ畜生《ちくしょう》! おもしろいぞ、畜生め、うむ畜生」
 おもしろいのに畜生よばわりは光一に合点《がてん》がゆかなかった。
「なにがおもしろいの?」
「なにがっておまえ、くそッ」伯父さんはひどく興奮《こうふん》していた。
「どろぼうめが、畜生」
「どろぼうがいたの?」
「どろぼうじゃねえか、一部の議員と阪井とがぐるになって、道路の修繕費をごまかして選挙費用に使用しやがった、それをおまえ大庭《おおば》さんがギュウギュウ質問したもんだから、困りやがって休憩《きゅうけい》にしやがった、さあおもしろい、お父さんがいるか」
「ぼくはいま学校の帰りですから知らない」
「知らない? ばかッ、そんならそうとなぜ早くいわないのだ、
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