そんな風じゃ出世しないぞ」
 伯父さんはぶりぶりして足を急がせたが、なにしろふとってるので頭と背中がゆれる割合《わりあい》に一向《いっこう》足がはかどらなかった。
 そういう政党の争いは光一にとってなんの興味もなかった、かれが家へはいると、もう伯父さんの大きな声が聞こえていた。
「どろぼうのやつめ、畜生ッ、さあおもしろいぞ」
 父はげらげらわらっていた、母もわらっていた、伯父さんが憤慨すればするほど女中達や店の者共に滑稽《こっけい》に聞こえた。伯父さんはそそっかしいのが有名で、光一の家へくるたびに帽子を忘れるとか、げたをはきちがえるとか、ただしはなにかだまって持ってゆくとかするのである。
 光一は父と語るひまがなかった、父は伯父さんと共に外出して夜|晩《おそ》く帰った、光一は床《とこ》にはいってから校長のことばかりを考えた。
「停学された復讐《ふくしゅう》として阪井の父は校長を追いだすのだ」
 こう思うとはてしなく涙がこぼれた。
 翌日学校へいくとなにごともなかった、正午の食事がすむと委員が校長に面会をこう手筈《てはず》になっている。
「堂々とやるんだぞ、われわれの血と涙をもってやるんだ、至誠もって鬼神を動かすに足《た》るだ」
 と小原が委員を激励した。
 委員はそこそこに食事をすまして校長室へいこうとしたとき、突然最敬礼のらっぱがひびいた。
「講堂へ集まれい」と少尉《しょうい》が叫びまわった。
「なんだろう」
 人々はたがいにあやしみながら講堂へ集まった、講堂にはすでに各先生が講壇の左右にひかえていた、どれもどれも悲痛な顔をしてこぶしをにぎりしめていた。もっとも目にたつのは漢文の先生であった、ひょろひょろとやせて高いその目に涙が一ぱいたまっていた。
「あの一件だぞ」と委員達は早くもさとった、そうして委員は期せずして一番前に腰をかけた。ざわざわと動く人波がしずまるのを待って少尉はおそろしい厳格な顔をして講壇に立った。
「諸君もあるいは知っているかもしらんが、こんど久保井校長が東京へ栄転さるることになりました、ついては告別のため校長から諸君にお話があるそうですから謹聴なさるがいい、決して軽卒なことがないように注意をしておく」
 この声がおわるかおわらないうちに講堂は潮のごとくわきたった。
「なぜ校長先生がこの学校をでるのですか」
「栄転ですか、免官ですか」
「先生がぼくらをすてるんですか」
「先生を追いだすやつがあるんですか」
 小さな声大きな声、バスとバリトンの差はあれども声々は熱狂にふるえていた、実際それは若き純粋な血と涙が一度に潰裂《かいれつ》した至情の洪水《こうずい》であった。
「諸君?[#「?」はママ]」
 小原捕手《こはらキャッチャ》は講壇の下におどり出して一同の方へ両手をひろげて立った。
「校長先生が諸君に告別の辞をたまわるそうだが、諸君は先生とわかれる意志があるか、意志があるなら告別の辞を聴くべしだ、意志のない者は……どうしても先生とわかれたくないものはお話を聴く必要がないと思うがどうだ」
「そうだ、無論だ」
 講堂の壁がわれるばかりの喝采と拍手が起こった。
「小原、おねがいしてくれ、先生におねがいしてくれ」
 だれかがすきとおる声でこういった。校長はまっさおになってこの体《てい》を見ていた。自分が手塩にかけて教育した生徒がかほどまで自分を信じてくれるかと思うと心の中でなかずにはいられなかった。
「先生!」
 小原は校長の方へ向きなおっていった、そのまっ黒な顔に燃ゆるごとき炎《ほのお》がひらめいた、広い肩と太い首が波の如《ごと》くふるえている。
「先生!」
 かれはふたたびいったが涙が喉につまってなにもいえなくなった。
「校長先生!」
 こういうやいなやかれは急に声をたててすすりあげ、その太い腕《かいな》を目にあててしまった。講堂は水を打ったようにしずまった、しぐれに打たるる冬草のごとくそこここからなき声が起こった、とそれがやがてこらえきれなくなって一度になきだした。漢文の先生は両手で顔をかくした、朝井先生は扉《ドア》をあけて外へでた、他の先生達は右に傾き左に傾いて涙をかくした。
 校長はしずかに講壇に立った。低いしかも底力のある声は、くちびるからもれた。
「諸君! 不肖《ふしょう》久保井克巳《くぼいかつみ》が当校に奉職してよりここに六年、いまだ日浅きにかかわらず、前校長ののこされた美風と当地方の健全なる空気と、職員諸氏の篤実とによって幸いに大瑕《たいか》なく校長の任務を尽くし得たることを満足に思っています、今回当局の命により本校を去り諸君とわかれることになったことは実に遺憾《いかん》とするところでありますが事情まことにやむを得ません。おもうに離合集散《りごうしゅうさん》は人生のつね、あえて悲しむに足らざることで
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