は校長の美しい心に打たれて反対することができなくなった、人々は沈黙した。そうしてしずかに会議をおわった。
「こんなにありがたい校長および職員一同の心持ちが阪井にわからんのかなア」と少尉は涙ぐんでいった。
停学を命ずという掲示が翌日掲げられたとき、生徒一同は万歳を叫んだ。だがそれと同時に阪井は退校届けをだした。校長はいくども阪井の家を訪《と》うて退校届けの撤回《てっかい》をすすめたがきかなかった。
校長はまたまた柳の見舞いにいった。光一の負傷は浅かったが、なにかの黴菌《ばいきん》にふれて顔が一面にはれあがった。かれの母は毎日見舞いの人々にこういって涙をこぼした。
「阪井のせがれにこんなにひどいめにあわされましたよ」
それを見て父の利三郎は母をしかりつけた。
「愚痴《ぐち》をいうなよ、男の子は外へ出ると喧嘩をするのは仕方がない、先方の子をけがさせるよりも家の子がけがするほうがいい」
そのころ町々は町会議員の選挙で鼎《かなえ》のわくがごとく混乱《こんらん》した、あらゆる商店の主人はほとんど店を空《から》にして奔走《ほんそう》した。演説会のビラが電信柱や辻々《つじつじ》にはりだされ、家々は運動員の応接にせわしく、料理屋には同志会専属のものと立憲党専属のものとができた。
阪井猛太は巌の父である、昔から同志会に属しその幹部として知られている、その反対に柳利三郎は立憲党であった、そういう事情から両家はなんとなく不和である、のみならずこのせわしい選挙さわぎの最中に阪井の息子が柳の息子の額《ひたい》をわったというので、それを政党争いの意味にいいふらすものもあった。
次第次第に快復《かいふく》に向かった光一は聞くともなしに選挙の話を聞いた。
「私は商人だからな、政党にはあまり深入りせんようにしている」
こういつもいっていた父が、急に選挙に熱してきたことをふしぎに思った、選挙は補欠選挙《ほけつせんきょ》であるから、たったひとりの争奪《そうだつ》である、だがひとりであるだけに競争がはげしい。政党のことなんかどうでもかまわないと思った光一も、父が熱し親戚《しんせき》が熱し出入りの者どもが熱するにつれて、自然なんとかして立憲党が勝てばよいと思うようになった。
選挙の期日が近づくにしたがって町々の狂熱がますます加わった。ちょうどそのときだれが言うとなく、豆腐屋の覚平《かくへい》が出獄するといううわさが拡まった。
「おもしろい、覚平がきっと復讐するにちがいない」と人々はいった。
ある日光一は覚平を見た、かれはよごれたあわせに古いはかまをはいて首にてぬぐいをまいていた、一月の獄中生活でかれはすっかりやせて野良犬《のらいぬ》のようにきたなくなり目ばかりが奇妙に光っていた、かれは非常に鄭重《ていちょう》な態度で畳《たたみ》に頭をすりつけてないていた。
「ご恩は決してわすれません、きっときっとお返し申します」
かれはきっときっとというたびに涙をぼろぼろこぼした。
「もういいもういいわかりました、だれにもいわないようにしてな、いいかね、いわないようにな」
と父はしきりにいった。
「きっと、きっと!」
覚平《かくへい》はこういって家をでていった、光一ははじめて例のさしいれものは父であることをさとった。その翌日から町々を顛倒《てんとう》させるような滑稽《こっけい》なものがあらわれた。懲役人《ちょうえきにん》の着る衣服と同じものを着た覚平は大きな旗をまっすぐにたてて町々を歩きまわるのである。旗には墨痕淋漓《ぼっこんりんり》とこう書いてある。
「同志会の幹事《かんじ》は強盗《ごうとう》の親分である」
かれは辻々に立ち、それから町役場の前に立ち、つぎに阪井の家の前に立ってどなった。
「折詰《おりづめ》をぬすんだやつ、豆腐をぬすんだやつ、学校を追いだされたやつ、そのやつの親父《おやじ》は阪井猛太だ」
巡査が退去を命ずればさからわずにおとなしく退去するが、巡査が去るとすぐまたあらわれる、町の人々はすこぶる興味を感じた、立憲党の人々はさかんに喝采した、ときには金や品物をおくるのであったが、覚平は一切拒絶した。
これがどれだけの効果があったかは知らぬが選挙はついに立憲党の勝利に帰した。覚平は町々をおどり歩いた。
「ざまあ見ろ阪井のどろぼう!」
もう光一は学校へ通うようになった、とこのとき校内で悲しいうわさがどこからとなく起こった。
「校長が転任する」
このうわさは日一日と濃厚《のうこう》になった、生徒の二、三が他の先生達にきいた。
「そんなことはありますまい」
こう答えるのだが、そういう先生の顔にも悲しそうな色がかくしきれなかった。生徒の主なる者がよりよりひたいをあつめて協議した。
「本当だろうか」
このうたがいのとけぬ矢先《やさき》に手塚はこうい
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