こう》だ」と阪井は急にあらたまっていった。
「なぜだ」
「ばかやろう! おれは人につばを吐《は》きかけられたらそやつを殺してしまわなきゃ承知しないんだ、つばを吐きかけられたとあっては阪井は世間へ顔出しができない、うそもいい加減《かげん》に言えよばかッ」
 阪井はずんずん急ぎ足で去った、手塚はうらめしそうにその方を見やった。
「どっちがばかか、おれがしょうじきに白状《はくじょう》したのも知らないで……いまに見ろ退校させれるから」
 かれはこうひとりでいって角《かど》を曲がった。
「だが先生達の顔色で見ると、柳の方へつく方が利益だ、そうだ、柳の見舞いにいってやろう」
 学校では職員会議がたけなわであった。阪井の乱暴については何人《なんぴと》も平素|憤慨《ふんがい》していることである。人々は口をそろえて阪井を退校に処《しょ》すべき旨《むね》を主張した。
「試験の答案に、援軍きたらず零敗すと書くなんて、こんな乱暴な話はありません」と幾何学《きかがく》の先生がいった。
「しかし」と漢学の先生がいった、「阪井は乱暴だがきわめて純な点があります、うそをつかない、手塚のように小細工をしない、おだてられて喧嘩をするが、ものの理屈がわからないほうでもない、無論今度のことは等閑《とうかん》に付《ふ》すべからざることですが、退校は少しく酷《こく》にすぎはしますまいか」
「いや、あいつは破廉恥罪《はれんちざい》をおかして平気でいます、人の畑のいもを掘る、駄菓子屋《だがしや》の菓子をかっぱらう、ついこのごろ豆腐屋の折詰《おりづめ》を強奪《ごうだつ》してそのために豆腐屋の親父《おやじ》が復讐《ふくしゅう》をして牢獄《ろうごく》に投ぜられた始末、私がいくども訓戒したがききません、かれのために全校の気風が悪化してきました、雑草を刈《か》り取らなければ他の優秀な草が生長をさまたげられます、これはなんとかして断固《だんこ》たる処分にでなければなりますまい、いかがですか校長」
 朝井先生がこういったとき、一同の目が校長に注がれた。校長は先刻から黙然として一言もいわずにまなこを閉《と》じていたがこのときようやくまなこをみひらいた。涙が睫毛《まつげ》を伝うてテーブルにぽたりぽたりこぼれた。
「わかりました、諸君のいうところがよくわかりました、実は私はこのことあるを憂《うれ》いて、前後五回ほど阪井の父をたずねて忠告したのです、それにかかわらずかれの父はかれを厳重にいましめないのです、これだけに手を尽くしても改悛《かいしゅん》せず、その悪風を全校におよぼすのを見ると、いまは断固たる処置をとらなきゃならない場合だと思います。しかしながら諸君、しかしながら……」
 校長の語気は次第に熱してきた。
「キリストの言葉に九十九のひつじをさしおいても一頭の迷える羊《ひつじ》を救えというのがあります、あれだけ悪い家庭に育ってあれだけ悪いことをする阪井は憎《にく》いにちがいないが、それだけになおかわいそうじゃありませんか、あんな悪いことを働いてそれが悪いことだと知らずにいる阪井巌をだれが救うてくれるでしょうか、善良なひつじは手をかけずとも善良に育つが、悪いひつじを善良にするのはひつじかいの義務ではありますまいか、いまここで退校にされればかれは不良少年としてふたたび正しき学校へ行くことができなくなり、ますます自暴自棄《じぼうじき》になります、そうすると、ひとりの男をみすみす堕落《だらく》させるようなものです、救い得る道があるなら救うてやりたいですな」
「いかにもなア」
 感嘆《かんたん》の声が起こった、人々は校長が生徒を愛する念の深きにいまさらながらおどろいた。
「ごもっともです」と朝井先生はいった。「校長の情け深いお説に対してはもうしあげようもありません、しかし教育者は一頭のひつじのために九十九の羊を捨てることはできません、ひとりのコレラ患者《かんじゃ》のために全校の生徒を殺すことはできません、阪井については師範校からも苦情がきております、かれの父はかれよりも凶悪です、しかも政党の有力者であり助役であるところからしてその子がどんな悪いことをしても罰することができないのだと世間で学校を嘲笑《ちょうしょう》しています、学校の威厳が一《ひと》たびくずれると生徒が決してわれわれの訓戒をきかなくなります。かたがたこの場合断固たる処置をとられることを希望致します」
「よろしい、きめましょう、一週間の停学にしましょう、それでもだめだったら退校にしましょう、どんな罪があろうと、その罪の一半《いっぱん》は私の徳《とく》の足らないためだと私は思います、私も深く反省しましょう、諸君もより以上に注意してください、悪い親を持った一少年を学校が見捨てたら、もうそれっきりですからなあ」
 寛大すぎるとは思ったが朝井先生
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