た。
「たい焼き買って、あめ買って、のらくらするのは浦中《うらちゅう》ちゅう、ちゅうちゅうちゅう、おやちゅうちゅうちゅう」
 妙な節でもってうたいだした。すると中学も応戦してうたった。
「官費じゃ食えめえ気の毒だ、あんこやるからおじぎしろ、たまには、たいでも食べてみろ」
 このさわぎを聞いた例のらっぱ卒は早速《さっそく》校長に報告した。校長はだまってそれを聞いていたがやがておごそかにいった。
「たい焼き屋に退却《たいきゃく》を命じろ」
 いかになることかとびくびくしていた生徒共は校長の措置《そち》にほっと安心した、たい焼き屋はすぐに退却した、だが哀《あわ》れなるたい焼き屋! 一時間のうちに数十のたいが飛ぶがごとく売れるような結構な場所はほかにあるべくもない。かれは翌日またもや屋台をひいてきた。それと見た校長は生徒を校庭に集めた。
「たい焼きを食うものは厳罰に処すべし」
 生徒は戦慄《せんりつ》した、とその日の昼飯時である。生徒はそれぞれに弁当を食いおわったころ、生蕃は屋台をがらがらと校庭にひきこんできた。
「さあみんなこい、たい焼きの大安売りだぞ」
 かれはメリケン粉を鉄の型に流しこんで大きな声でどなった。人々は一度に集まった。
「おれにくれ」
「おれにも」
 焼ける間も待たずに一同はメリケン粉を平らげてしまった。これが校中の大問題になった。じじいが横を向いてるすきをうかがって足を引いてさかさまにころばし、あっと悲鳴をあげてる間に屋台をがらがらとひいてきた阪井の早業《はやわざ》にはだれも感心した。
 わいわいなきながらじじいは学校へ訴《うった》えた。たい焼きを食ったものはわらって喝采《かっさい》した、食わないものは阪井の乱暴を非難した。だがそれはどういう風に始末をつけたかは何人《なんぴと》も知らなかった。
「阪井は罰を食うぞ」
 みながこううわさしあった、だが一向なんの沙汰《さた》もなかった。それはこうであった。阪井は校長室によばれた。
「屋台をひきずりこんだのはきみか」
「はい、そうです」
「なぜそんなことをしたか」
「たい焼き屋がきたためにみなが校則をおかすようになりますから、みなの誘惑《ゆうわく》を防ぐためにぼくがやりました」
「本当か」
「本当です」
「よしッ、わかった」
 阪井が室をでてから校長は歎息《たんそく》していった。
「阪井は悪いところもあるが、なかなかよいところもあるよ」
 しかし問題はそれだけでなかった、ちょうどそのときは第一期の試験であった、試験! それは生徒に取って地獄《じごく》の苦しみである、もし平素|善根《ぜんこん》を積んだものが死んで極楽にゆけるものなら、平素勉強をしているものは試験こそ極楽の関門である、だがその日その日を遊んで暮らすものに取っては、ちょうどなまけ者が節季《せっき》に狼狽《ろうばい》すると同じもので、いまさらながら地獄のおそろしさをしみじみと知るのである。
 浦和中学は古来の関東気質《かんとうかたぎ》の粋《すい》として豪邁不屈《ごうまいふくつ》な校風をもって名あるが、この年の二年にはどういうわけか奇妙な悪風がきざしかけた。それは東京の中学校を落第して仕方なしに浦和へきた怠惰生《たいだせい》からの感染《かんせん》であった。孔子《こうし》は一人《いちにん》貪婪《どんらん》なれば一国《いっこく》乱《らん》をなすといった、ひとりの不良があると、全級がくさりはじめる。
 カンニングということがはやりだした、それは平素勉強をせない者が人の答案をぬすみみたり、あるいは謄写《とうしゃ》したりして教師の目をくらますことである、それには全級の聯絡《れんらく》がやくそくせられ、甲《こう》から乙《おつ》へ、乙から丙《へい》へと答案を回送するのであった、もっと巧妙な作戦は、なにがしの分はなにがしが受け持つと、分担を定める。
 この場合にいつもぎせい者となるのは勉強家である。怠惰《たいだ》の一団が勉強家を脅迫《きょうはく》して答案の回送を負担せしめる。もし応じなければ鉄拳《てっけん》が頭に雨《あま》くだりする。大抵《たいてい》学課に勉強な者は腕力が弱く怠《なま》け者は強い。
 カンニングの連中にいつも脅迫されながら敢然《かんぜん》として応じなかったのは光一であった。もっともたくみなのは手塚であった。
 この日は幾何学《きかがく》の試験であった。朝のうちに手塚が光一のそばへきてささやいた。
「きみ、今日《きょう》だけ一つ生蕃を助けてやってくれたまえね」
「いやだ」と光一はいった。
「それじゃ生蕃がかわいそうだよ」
「仕方がないさ」
「一つでも二つでもいいからね」
「ぼくは自分の力でもって人を助けることは決していといはせんさ、だが、先生の目をぬすんでこそこそとやる気持ちがいやなんだ、悪いことでも公明正大にやるな
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