ら学校へくるな」
 生徒は沈黙した。生徒間には先生の言は道理だというものがあり、また、頑固《がんこ》で困るというものもあった、が結局先生に対してはなにもいわなくなった、英語の先生とはいうものの、この朝井《あさい》先生は猛烈な国粋主義者《こくすいしゅぎしゃ》であった、ある日生徒は英語の和訳を左から右へ横に書いた。それを見て先生は烈火のごとくおこった。
「きみらは夷狄《いてき》のまねをするか、日本の文字が右から左へ書くことは昔からの国風である、日本人が米の飯を食うことと、顔が黄色であることと目玉がうるしのごとく黒く美しいことと、きみに忠なることと、親に孝なることと友にあつきことと先輩をうやまうことは世界に対してほこる美点である、それをきみらは浅薄な欧米の蛮風を模倣《もほう》するとは何事だ、さあ手をあげて見たまえ、諸君のうちに目玉が青くなりたいやつがあるか、天皇にそむこうとするやつがあるか、日本を欧米のどれいにしようとするやつがあるか」
 先生の目には憤怒《ふんぬ》の涙が輝いた、生徒はすっかり感激してなきだしてしまった。
「新聞の広告や、町の看板にも不心得千万《ふこころえせんばん》な左からの文字がある、それは日本を愛しないやつらのしわざだ。諸君はそれに悪化されてはいかん、いいか、こういう不心得《ふこころえ》なやつらを感化して純日本に復活せしむるのは諸君の責任だぞ、いいか、わかったか」
 この日ほどはげしい感動を生徒にあたえたことはなかった。
「カトレットはえらいな」と人々はささやきあった。
 光一はこのほかにもっとも尊敬していたのは校長の久保井先生であった。元来光一は心の底から浦和中学を愛した。とくに数多《あまた》の先生に対しては単に教師と生徒の関係以上に深い尊敬と親しみをもっていた。校長は修身を受け持っているので、生徒は中江藤樹《なかえとうじゅ》の称《しょう》をたてまつった。校長の口ぐせは実践躬行《じっせんきゅうこう》の四字であった、かれの訓話にはかならず中江藤樹がひっぱりだされる、世界大哲人の全集を残らず読んでもそれを実地におこなわなければなんの役にもたたない、たとえばその……こう先生はなにか譬喩《ひゆ》を考えだそうとする。先生は譬喩がきわめてじょうずであった、謹厳そのもののような人が、どうしてこう奇抜な譬喩がでるかとふしぎに思うことがある、たとえばその、ぼたもちを見て食わないと同じことだ、ぼたもちは目に見るべきものでなくして、口に食すべきものだ、書籍は読むべきものでなくして行ないにあらわすべきものだ、いもは浦和の名産である、だが諸君、同じ大きさのいもの重さが異《こと》なる所以《ゆえん》を知っているか、量においては同じである。重さにおいて一|斤《きん》と二斤の差があるのは、肥料の培養法《ばいようほう》によってである、よき肥料と精密な培養はいもの量をふやしまた重さをふやす、よき修養とよき勉強は同じ人間を優等にすることができる、諸君はすなわちいもである。
 この訓話については「人を馬鹿にしてる。おれ達をいもだといったぜ、おい」と不平をこぼした者もあった。
 普通の教師は学校以外の場所では中折帽《なかおれぼう》をかぶったり鳥打帽《とりうちぼう》に着流しで散歩することもあるが、校長だけは年百年中《ねんびゃくねんじゅう》学校の制帽《せいぼう》で押し通している、白髪のはみだした学帽には浦和中学のマークがいつも燦然《さんぜん》と輝いている。校長のマークもぼくらのマークも同じものだと思うと光一はたまらなくうれしかった。
 とここに一大事件が起こった。ある日学校の横手にひとりのたい焼き屋が屋台をすえた。それはよぼよぼのおじいさんで銀の針のような短いひげがあごに生《は》え、目にはいつも涙をためてそれをきたないてぬぐいでふきふきするのであった。まずかまどの下に粉炭《こなずみ》をくべ、上に鉄の板をのせる。板にはたいのような形が彫《ほ》ってあるので、じいさんはそれにメリケン粉をどろりと流す、それから目やにをちょっとふいてつぎにあんを入れその上にまたメリケン粉を流す。
 最初はじいさんがきたないのでだれも近よらなかったが、ひとりそれを買ったものがあったので、われもわれもと雷同《らいどう》した、二年生はてんでにたい焼きをほおばって、道路をうろうろした、中学校の後ろは師範学校《しはんがっこう》である、由来いずれの県でも中学と師範とは仲《なか》が悪い、前者は後者をののしって官費《かんぴ》の食客だといい、後者は前者をののしって親のすねかじりだという。
 師範の生徒は中学生がたい焼きを食っているのを見て手をうってわらった。わらったのが悪いといって阪井生蕃《さかいせいばん》が石の雨を降らした。逃げ去った師範生は同級生を引率《いんそつ》してはるかに嘲笑《ちょうしょう》し
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