に味方し、好んで人の間柄をさいて喜んでるので、光一はかれのいうことをさまで気にとめなかった。
そのころ生蕃は得意の絶頂にあった、かれが三年のライオンを征服してから驍名《ぎょうめい》校中にとどろいた。かれは肩幅を広く見せようと両ひじをつっぱり、下腹を前へつきだして歩くと、その幕下共《ばっかども》は左右にしたがって同じような態度をまねるのであった。とくにかれは覚平の一件があってから凶暴《きょうぼう》がますます凶暴を加えた。
学校の小使いは廃兵《はいへい》であった。かれはらっぱをふくことがじょうずで、時間時間には玄関へでて腹一ぱいにふきあげる。それから右と左のろうかへふきこむと生徒がぞろぞろ教室をでる。それを見るとかれは愉快でたまらない。
「生意気なことをいってもおれのらっぱででたりはいったりするんだ、おまえたちはおれの命令にしたがってるんじゃないか」
こうかれは生徒共にいうのであった。かれはもう五十をすぎたが女房《にょうぼう》も子もない、ほんのひとりぽっちで毎日生徒を相手に気焔《きえん》をはいてくらしている、かれは日清戦争《にっしんせんそう》に出征して牙山《がざん》の役《えき》に敵の大将を銃剣で刺《さ》したくだりを話すときにはその目が輝きその顔は昔のほこりにみちて朱《しゅ》のごとく赤くなるのであった。
「そのときわが鎌田聯隊長殿《かまだれんたいちょうどの》は、馬の上で剣を高くふって突貫《とっかん》! と号令をかけた。そこで大沢《おおさわ》一等卒はまっさきかけて疾風《しっぷう》のごとく突貫した。敵は名に負う袁世凱《えんせいがい》の手兵だ、どッどッどッと煙をたてて寄せくる兵は何千何万、とてもかなうべきはずがない」
「逃げたか」とだれかがいう。
「逃げるもんか、日本男児だ、大沢一等卒は銃剣をまっこうにふりかぶって」
「らっぱはどうした」
「らっぱは背中へせおいこんだ」
「らっぱ卒にも銃剣があるのか」
「あるとも、兵たる以上は……まあだまって聞け大沢一等卒は……」
「いまや小使いになってる」
生徒は「わっ」とわらいだす、大抵《たいてい》このぐらいのところで軍談は中止になるのだが、かれはそれにもこりず生徒をつかまえては懐旧談をつづけるのであった。大沢一等卒がはたしてそれだけの武功があったかどうかは何人《なんぴと》も知らないことなのだが、生徒間ではそれを信ずる者がなかった。大沢小使いの一番おそれていたのは体操の先生の阪本少尉《さかもとしょうい》であった、かれは少尉の顔を見るといつも直立不動の姿勢で最敬礼をするのであった。
「小使い! お茶をくれ」
「はい、お茶を持ってまいります」
実際大沢は校長に対するよりも少尉に対する方が慇懃《いんぎん》であった、生徒はかれを最敬礼とあだ名した。
最敬礼のもっともきらいなのは生蕃であった、生蕃はいつもかれを罵倒《ばとう》した。生蕃は大沢一等卒が牙山《がざん》の戦いで一生懸命に逃げてアンペラを頭からかぶって雪隠《せっちん》でお念仏をとなえていたといった。それに対して大沢は顔を赤くして反駁《はんばく》した。
「見もしないでそんなことをいうものじゃない」
「おれは見ないけれども官報にちゃんとでていたよ」と生蕃がいった。
「とほうもねえ、そんな官報があるもんですか」
なにかにつけて大沢と生蕃は喧嘩した、それがある日らっぱのことで破裂した。大沢が他の用事をしているときに生蕃がらっぱをぬすんでどこかへいってしまった。これは大沢にとってゆゆしき大事であった。大沢は血眼《ちまなこ》になってらっぱを探した、そうしてとうとう生蕃があめ屋にくれてやったことがわかったのでかれは自分の秘蔵《ひぞう》している馬の尾で編んだ朝鮮帽をあめ屋にやってらっぱをとりかえした。
「助役のせがれでなけりゃ口の中へらっぱをつっこんでやるんだ」とかれは憤慨《ふんがい》した。
生蕃の素行についてはしばしば学校の会議にのぼったが、しかしどうすることもできなかった。英語の先生に通称カトレットという三十歳ぐらいの人があった、この先生は若いに似ずいつも和服に木綿《もめん》のはかまをはいている、先生の発音はおそろしく旧式なもので生徒はみんな不服であった。先生はキャット(ねこ)をカットと発音する、カツレツをカトレットと発音する。
「先生は旧式です」と生徒がいう。
「語学に新旧《しんきゅう》の区別があるか」と先生は恬然《てんぜん》としていう。
「しかし外国人と話をするときに先生の発音では通じません」
「それだからきみらはいかん、語学をおさめるのは外人と話すためじゃない、外国の本を読むためだ、本を読んでかれの長所を取りもってわが薬籠《やくろう》におさめればいい、それだけだ、通弁になって、日光《にっこう》の案内をしようという下劣な根性のものは明日《あす》か
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