らぼくは賛成する、こそこそはぼくにできない、絶対にできないよ」
「偽善者《ぎぜんしゃ》だねきみは」と手塚はいった。
「なんとでもいいたまえ、ぼくは卑劣《ひれつ》なことはしたくないからふだんに苦しんで勉強してるんだ、きみらはなまけて楽をして試験をパスしようというんだ、その方が利口かも知らんがぼくにはできないよ」
「きみは後悔《こうかい》するよ、生蕃はなにをするか知れないからね」
光一は答えなかった。光一の席の後ろは生蕃である、光一が教室にはいったとき、生蕃は青い顔をしてだまっていた。
幾何学《きかがく》の題は至極《しごく》平易なのであった、光一はすらすらと解説を書いた、かれは立って先生の卓上《たくじょう》に答案をのせ机《つくえ》と机のあいだを通って扉口《ドアぐち》へ歩いたとき、血眼《ちまなこ》になってカンニングの応援を待っているいくつかの顔を見た。阪井は頭をまっすぐに立てたまま動きもしなかった。手塚は狡猾《こうかつ》な目をしきりに働かせて先生の顔を、ちらちらと見やっては隣席の人の手元をのぞいていた。
「気の毒だなあ」
光一の胸に憐愍《れんびん》の情が一ぱいになった。かれは自分の解説があやまっていないかをたしかめるために控《ひか》え席《せき》へと急いだ。
ひとりひとり教室からでてきた、かれらの中には頭をかきかきやってくるものもあり、また大功名をしたかの如くにこにこしてくるものもあり、あわただしく走ってきてノートを開いて見るものもあった、人々は光一をかこんで解説をきいた、そうして自分のあやまれるをさとってしょげかえるものもありまた、おどりあがって喜ぶものもあった、この騒《さわ》ぎの中に阪井が青い顔をしてのそりとあらわれた。
「どうした、きみはいくつ書いた」と人々は阪井にいった。
「書かない」と阪井は沈痛にいった。
「一つもか」
「一つも」
「なんにもか」
「ただこう書いたよ、援軍《えんぐん》きたらず零敗《れいはい》すと」人々はおどろいて阪井の顔を見詰《みつ》めた、阪井の口元に冷ややかな苦笑が浮かんだ。
「だれかなんとかすればいいんだ」と手塚がいった。
「ぼくは自分のだけがやっとなんだよ」とだれかがいった。
「一番先にできたのはだれだ」と手塚がいった。
「柳だよ」「そうだ柳だ」
「柳は卑劣だ、利己主義《りこしゅぎ》だ」
声がおわるかおわらないうちに阪井は弁当箱《べんとうばこ》をふりあげた。光一はあっと声をあげて目の上に手をあてた、眉と指とのあいだから血がたらたらと流れた。血を見た阪井はますます狂暴になっていすを両手につかんだ。
「よせよ、よせ、よせ」人々は総立ちになって阪井をとめた。
「あんなやつ、殺してしまうんだ、とめるな、そこ退け」
阪井は上衣《うわぎ》を脱《ぬ》ぎ捨てて荒れまわった、このさわぎの最中に最敬礼のらっぱ卒がやってきた、かれは満身の力でもって阪井を後ろからはがいじめにした。「このやろう、今日《きょう》こそは承知ができねえぞ、さああばれるならあばれて見ろ、牙山《がざん》の腕前を知らしてやらあ」
四
阪井が柳を打擲《ちょうちゃく》して負傷させたということはすぐ全校にひびきわたった。上級の同情は一《いつ》に柳に集まった。
「阪井をなぐれなぐれ」
声はすみからすみへと流れた。
「この機会に阪井を退校さすべし」
この説は一番多かった。ある者は校長に談判しようといい、ある者は阪井の家へ襲撃《しゅうげき》しようといい、ある者は阪井をとらえて鉄棒《かなぼう》にさかさまにつるそうといった。憤激《ふんげき》! 興奮《こうふん》! 平素阪井の傲慢《ごうまん》や乱暴をにがにがしく思っていたかれらはこの際|徹底的《てっていてき》に懲罰《ちょうばつ》しようと思った。二時の放課になっても生徒はひとりも去らなかった。ものものしい気分が全校にみなぎった。
なにごとか始まるだろうという期待の下に人々は校庭に集まった。
「諸君!」
大きな声でもってどなったのはかつて阪井と喧嘩をした木俣ライオンであった。
「わが校のために不良少年を駆逐《くちく》しなければならん、かれは温厚なる柳を傷《きず》つけた、そうして」
「わかってる、わかってる」と叫ぶものがある。
「おまえも不良じゃないか」と叫ぶものがある。
木俣はなにかいいつづけようとしたが頭を掻いて引込んだ。人々はどっとわらった。これを口切りとして二、三人の三年や四年の生徒があらわれた。
「校長に談判しよう」
「やれやれ」
「徹底的にやれ」
少年の血潮は時々刻々に熱した。
「待てッ、諸君、待ちたまえ」
五年生の小原《こはら》という青年は木馬の上に立って叫んだ。小原は平素|沈黙寡言《ちんもくかげん》、学力はさほどでないが、野球部の捕手として全校に信頼されている。肩幅
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