もそも諸君は足利尊氏《あしかがたかうじ》、平清盛《たいらのきよもり》、源頼朝《みなもとのよりとも》をも英雄となすであろう。かれらは国賊である、臣子の分をみだすものは他に百千の功ありとも英雄と称することはできない、古来英雄と称するものは大抵《たいてい》奸雄《かんゆう》、梟雄《きょうゆう》、悪雄の類である、ぼくはこれらの英雄を憎む、それと同時に鎌足《かまたり》のごとき、楠公《なんこう》のごとき、孔子《こうし》のごとき、キリストのごとき、いやしくも正義の士は心をつくし気を傾《かたむ》けて崇拝する、それになんのふしぎがあるか、万人に傑出する材ありといえども弓削道鏡《ゆげのどうきょう》を英雄となし得ようか、三帝を流し奉《たてまつ》りし北条《ほうじょう》の徒を英雄となし得ようか、諸君! 諸君は西郷南洲《さいごうなんしゅう》を英雄なりと称す、はたしてかれは英雄であるか、かれは傑出したる人材に相違ないが、いやしくも錦旗《きんき》にたいして銃先《つつさき》を向けたものである、すでに大義に反す、なんぞ英雄といいえよう」
ひつじは俄然《がぜん》虎になった。処女は脱兎《だっと》になった。いままで湲々《えんえん》と流れた小河の水が一瀉《いっしゃ》して海にいるやいなや怒濤《どとう》澎湃《ほうはい》として岩を砕《くだ》き石をひるがえした。光一の舌頭は火のごとく熱した。
「野淵君は漫然と英雄のご利益《りやく》をといたが、いかなるものがこれ英雄であるかを説《と》かない、正しき英雄とよこしまなる英雄とを一括《いっかつ》して概念的にその可《か》不可を論ずるは論拠においてすでに薄弱である」
「ひやひや」と手塚は立ちあがって叫んだ。
「待ちたまえ、さらに手塚君の説を駁《ばく》さねばならん、手塚君は英雄は個人主義である、英雄は民衆を侵掠《しんりゃく》したといった、侵掠か征服かぼくはいずれたるかを知らずといえども、弱者が強者に対して侵掠呼ばわりをするのは今日の悪思想であります、婦人は男に対して乱暴よばわりをなし、貧者は富者に対して圧迫よばわりをなし、なまけ者が勤勉者に対して傲慢《ごうまん》よばわりをなす、ここにおいてプロレタリアはブルジョアをのろい、労働者は資本家をのろい、人民は政府をのろい、人は親をのろい、妻は良人《おっと》をのろう、そもそもそれははたして正しきことであるか、思うに民衆といいデモクラシーと叫ぶこと今日ほどさかんなときはない、しかし心をしずめ耳をそばだてて民衆の声を聞きなさい、かれらはこういっている。『首領がほしい』『私達を指導してくれる人がほしい』『レーニンがほしい』『ムッソリーニがほしい』『ナポレオンがほしい』と、いかなる場合にも団体は首領が必要である。首領は英雄である。フランス人は革命をもって自由を得た、しかし革命には十人をくだらざる首領があった、ローマの国民はなにを望んだか、シーザーにあらずんばブルタスであった。日本の国民はなにを望んだか、源《みなもと》にあらずんば平《たいら》であった、ナポレオンを島流しにしたのは国民であったが、かれを帝王にしたのも国民であったことをわすれてはならない。しかるに手塚君はなんのために英雄を非認するか、英雄いでよ、正しき英雄いでよ、現代の腐敗は英雄主義がおとろえたからである、ぼくのいわゆる英雄は活動写真の近藤勇《こんどういさみ》ではない、国定忠治《くにさだちゅうじ》ではない、鼠小僧次郎吉《ねずみこぞうじろきち》ではない、しかもまた尊氏《たかうじ》、清盛《きよもり》、頼朝《よりとも》の類《たぐい》ではない、手塚君の英雄でもなければ野淵君の英雄でもない、ぼくは正義の英雄を讃美する、いやしくも正義であれば武芸がつたなくとも、知謀がなくとも、学校を落第しても、野球がまずくとも、金持ちでも貧乏でも、すべて英雄である、この故にぼくはこういいたい、『すべての人は英雄になり得る資格がある』と」
なんともいいようのない厳粛な気が会場を圧してしばらく水をうったように沈黙したかと思うと急に拍手喝采が怒濤のごとくみなぎった。手塚はどこへ行ったか姿が見えない。千三は呼吸もつけなかった。かれは光一の論旨には一点のすきもないと思った。
「畜生《ちくしょう》ッ、うまくやりやがった」
こう思うとせっかくの復讐心《ふくしゅうしん》も一半《いっぱん》はくじかれてしまった。
「つまらない、こなければよかった」
かれはいまいましさにたえかねて会場をでた。外は漆《うるし》のごとくくらい。ふりかえってみると学校の窓々からこうこうと灯《ひ》の光がほとばしっていた。千三は一種の侮辱を感じながら歩くともなく歩きつづけた。とかれは路傍《ろぼう》の石につまずいてげたのはなおをふっつりと切らした。
「大変だ」
かれは途方《とほう》にくれた。
「なわきれが落ちてなかろ
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