なかったらどうであろう、春風長堤をふけども落花にいななける駒《こま》もなし、南朝四百八十寺、甍《いらか》青苔《せいたい》にうるおえども鎧《よろい》の袖《そで》に涙をしぼりし忠臣の面影《おもかげ》をしのぶ由もなかろう、花ありてこそ吾人は天地の美を知る、英雄ありてこそ人間の偉《い》なるを見る、人類の中にもっとも秀《ひい》でたるものは英雄である、英雄は目標である、羅針盤《らしんばん》である、吾人はその経歴や功績を見てたどるべき道を知る、前弁士は清盛《きよもり》、頼朝《よりとも》、太閤《たいこう》、家康《いえやす》、ナポレオンを列挙し吾人の祖先がかれらに侵掠《しんりゃく》せられ、隷使《れいし》されたといったがいずれのときに於《お》いても民衆の上に傑出せる英雄が生ずるのである。清盛《きよもり》、頼朝《よりとも》、太閤《たいこう》、家康《いえやす》、ナポレオンが生まれなければ、他の英雄が生まれて天下を統一するであろう、非凡の才あるものが凡人を駆使《くし》するのは、非凡の科学者が電気や磁気や害虫や毒液を駆使すると同じである。露国《ろこく》はソビエト政府を建てたがかれらを指揮するものはレーニンとトロツキーである。イタリーはデモクラシーを廃してムッソリーニを英雄として崇拝している、英雄主義は永遠にほろびるものでない、英雄のなき国は国でない、宇宙に真理があるごとく人間に英雄があるものである、いたずらに英雄を無視せんとするものは自ら英雄たるあたわざる者の絶望の嫉妬《しっと》である」
「そうだそうだ」と彰義隊《しょうぎたい》は頭に鉢巻きをしておどりあがった。「おれのいいたいことをみんないってくれた」
 人々は野淵の荘重《そうちょう》な漢文口調の演説を旧式だと思いつつもその熱烈な声に魅《み》せられて、狂するがごとく喝采した、手塚はきまりわるそうに頭を垂れた。実をいうとかれの論旨はある社会主義の同人雑誌から盗んだものなので、その新しそうに見えるところがすこぶる気にいったのであった。かれはこの演説で大いに「新人《しんじん》」ぶりを見せびらかすつもりであったが、野淵に一蹴《いっしゅう》されたのでたまらなく羞恥《しゅうち》を感じた。そうして救いを求むるように光一の方を見やった。
 光一はだまって演壇の方へ歩いた。人々はさかんに拍手した。光一は平素あまり議論をこのまなかった。かれは自分でも演説はへただと思っている。だがみなのすすめをこばむことはできなかった。かれは演壇にのぼったとき胸が波のごとくおどった。そうして自分ながら顔がまっかになったことを感じた。だがそれを制することもできなかった。かれは躊躇《ちゅうちょ》した。それはさながら群がるとらの前にでた羊《ひつじ》のごとく弱々しい態度であった。
 千三はじっと目をすえて光一をにらんでいた。
「畜生! あいつなにをいやがるだろう、へんなことをいったらめちゃめちゃに攻撃していつかの復讐《ふくしゅう》をし、満座の前で恥《はじ》をかかしてやろう」
 おそらく当夜の会場で千三ほど深い注意をもって光一の演説を聴いていたものはなかったろう。
 一方において手塚はほっと息をついた。救いの船がきたのである。師範の野淵をやっつけてくれるだろう。
「ぼくは演説がへたですからよくしゃべれません」
 いかにもおずおずした調子でしかも低い活気のない声で光一はいった。
「へたなやつだなあ」と千三は肚《はら》の中でいった。
「ふだんにいくらいばっても晴れの場所では物がいえないだろう、へそに力がないからだ」
 会衆もまた光一が案外へたなのに失望した。
「しかしぼくは野淵君の説に賛成することはできません、野淵君は英雄と花とを比較《ひかく》して美文を並べたがそれはカアライルの焼きなおしにすぎません、いかにも英雄は必要です、だが野淵君のいうような英雄は全然不必要です、いかんとなれば昔の英雄は国利民福を主とせずして自己の利害のみを主としたからです、豊臣《とよとみ》が諸侯を征した。家康《いえやす》が旧恩ある太閤《たいこう》の遺孤《いこ》を滅ぼして政権を私した、そうして皇室の大権をぬすむこと三百余年、清盛《きよもり》にしろ頼朝《よりとも》にしろ、ことごとくそうである、かれらは正義によらざる英雄である、不正の英雄は抜山倒海《ばつざんとうかい》の勇あるももって尊敬することはできません、武王《ぶおう》は紂王《ちゅうおう》を討った、それは紂王《ちゅうおう》が不正だからである、ナポレオンは欧州を略《りゃく》した、それは国民の希望であったからである、木曽義仲《きそよしなか》を討ったとき義経《よしつね》は都に入るやいなや第一番に皇居を守護した、かれは正義の英雄である、楠正成《くすのきまさしげ》の忠はいうまでもない。藤原鎌足《ふじわらのかまたり》の忠もまたいうまでもない。そ
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