ださい」と司会者の銅貨が注意した。
「よしッ、わかりました、そこで満場の諸君!」
彰義隊《しょうぎたい》はこう向きなおってなにかつづけようとしたがなにをいうつもりであったか忘れたのでしきりに頭をかいた。
「おわりッ」
かれは壇を降りた、拍手と笑声とが一度にとどろいた。
「ただいまのは少し脱線しました、次は……」と銅貨がいった。このとき手塚がみなに押されて座席をはなれた。会衆は波の如く動いた。手塚は器用で頓知がある、人まねがじょうずで、活動の弁士の仮声《こわいろ》はもっとも得意とするところであり、かつ毎月多くの雑誌を読んであらゆる流行語を知っている。かれは新しい制服を着てなめらかに光る靴をはいていた。
拍手に送られてかれは演壇に立った。
「私は英雄を非認《ひにん》するためにこの演壇に上がりました、私は歴史のあらゆる頁《ページ》から英雄を抹殺したいと思います。英雄なる文字は畢竟《ひっきょう》奴隷《どれい》なる文字の対象であります、私共の祖先は英雄の奴隷《どれい》であったのです、個人の権利を侵掠《しんりゃく》して自己の征服欲を満足させたものは英雄であります、もし今日……デモクラシーの今日においてなお英雄を崇拝するものあらばそれは個人の生存権利を知らない旧《ふる》い頭の持ち主であります」
一気にすらすらといいだした流暢な弁舌はさわやかに美しい、彼の目はいかにも聡明に輝き、その頬《ほお》は得意の心状と共にあからんだ。
「よくしゃべる奴だ」と彰義隊《しょうぎたい》が叫んだ。
「しッしッ」と制する声。
手塚は会衆を満足そうに見おろしてつづけた。
「一|将《しょう》功《こう》成りて万骨《ばんこつ》枯《か》るという古言があります、ひとりの殿様がお城をきずくに、万人の百姓を苦しめました、しかも殿様は英雄とうたわれ百姓は草莽《そうもう》の間につかれて死にます、清盛《きよもり》、頼朝《よりとも》、太閤《たいこう》、家康《いえやす》、諸君はかれらを英雄なりというでしょう、しかしかれらがどれだけ諸君の祖先を幸福にしましたか、個人がその知力と腕力をもって他の多くの個人を征服し、侵掠《しんりゃく》し、しかもその子孫にまでおよぼすということは今日の世にゆるすべからざることであります、すでに世界においては欧州戦争以来すべてがデモクラシーになりました、民衆がすなわち国家であります、民衆の意志が国家の意志であります、ここにおいて昔のように英雄なる一人の暴虐者《ぼうぎゃくしゃ》の下に膝を屈するということは断じてやめなければなりません。諸君はナポレオンを英雄なりという、しかしナポレオンのためにフランスはどれだけ英国やロシアやドイツの圧迫を受けたか、一英雄のために国は疲れついにめめしくも城下のちかいをなして彼の英雄をセントヘレナへ流したではないか、おそるべきは英雄である、忌《い》むべきは英雄である、現代の日本は英雄崇拝の妄念《もうねん》を去って平等と自由に向かって進まねばならぬ、すべての偶像《ぐうぞう》を焼いて世界の趨勢にしたがわねばならぬ、私の論はこれをもっておわりとします」
会衆は恍惚《こうこつ》としてかれの声をきいていた、それはきわめて大胆で奇抜で、そうして斬新《ざんしん》な論旨である、偶像|破壊《はかい》! 平等と自由! デモクラシーの意義!
わるるばかりの拍手に送られて手塚は壇をおりた。かれの左右から校友がかわりがわりに握手するやら肩を打つやらした。手塚は揚々として席についた。
「反対!」と叫んだものがある。人々はその方を見ると師範学校の野淵であった。野淵というのは模範生と称せられている青年で、漢文や英語に長じその学問の豊かな点において先生達も舌を巻いておそれている。かれは底力のある声量と悠然《ゆうぜん》たる態度でまずこういった。
「ただいまの弁士の新知識を尊敬するとともにわが輩はその論旨に大なる疑いをはさまねばならないことを遺憾《いかん》に思います、弁士は英雄不必要を唱《とな》えました。英雄の対象は奴隷《どれい》であるといいました。偶像を破壊して民衆的にならねばならぬといいました。はたしてそうでしょうか、ああはたして然《しか》るか」
語調は一変して大石急阪を下る勢いもって進行した。
「もしこの世に英雄なかりせば人間はいかにみじめなものであろう、古人は桜《さくら》を花の王と称した、世の中に絶えて桜のなかりせば人の心やのどけからましと詠《えい》じた、吾人は野に遊び山に遊ぶ、そこに桜を見る、一抹《いちまつ》のかすみの中にあるいは懸崖千仭《けんがいせんじん》の上にあるいは緑圃黄隴《りょくほこうろう》のほとりにあるいは勿来《なこそ》の関《せき》にあるいは吉野の旧跡に、古来幾億万人、春の桜の花を愛《め》でて大自然の摂理《せつり》に感謝したのである、もし桜が
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