かれに対して抵抗することがない。
いやいやとかれは思い返した。これにはなにか事情がある。おれが第一になすべきことはおれの潔白を明らかにすることだ。もし文子さんを誘惑したという疑いがおれにかかってるものとすればおれはその事実をきわめて柳に謝罪させなければならぬ。そのときこそはおれは決して一歩もゆずらない。かれがいま、おれをなぐったほどおれもかれをなぐってやる。
このことがあってから光一と千三は仇敵のごとくになった。ふたりは道で逢《あ》っても顔をそむけた。
「いまに復讐《ふくしゅう》してやるぞ」
千三はこう肚《はら》の中でいった。文子は光一にきびしく説諭されてふたたび手塚の許《もと》へゆかなくなった。月日はすぎて、暑中休暇が近づいた。するとここにめずらしい事件が起こった。
浦和学生弁論会!
野球の試合ばかりが学生の興味でない。体力を養成するとともに知識を求めなければならぬ。浦和各中等学校の学生が一堂に会して弁論を研究しよう、これが目的で学生弁論会なるものが組織された。元来浦和に他山会《たざんかい》なるものがあって、師範学校と中学校の学生有志が一つの問題を提供して両方にわかれて討論したのであった。だがこの会には弊害があった。師範学校と中学校と、学校によって議論をわけたので、つまり対校試合と同じものになった。それがために中学生が師範生の説に賛成することができなかったり、師範生が自分の校友の説に反対することができなかったりそのために個人個人の自由意志が束縛《そくばく》されて弁論の主義が立たなくなった。そこで浦和弁論会はいずれの学校に属する学生でも自由に所懐を述べてさしつかえないことにした。そうして黙々塾《もくもくじゅく》をも勧誘した。いよいよ当日となった。場所は師範学校の大講堂である。時は夕方から。
この催《もよお》しを聞いて浦和の町の父兄達も定刻前に会場へつめかけた。各学校の先生達はわが生徒に勝たせようとしのびしのびに群集の中にまぎれこんでいった。時刻になると師範生のおそろしく丈の高い男が演壇に現われた。かれはすこぶる愛嬌者で頭の横に二銭銅貨ぐらいのはげがあるので銅貨のあだ名があった。かれは妙にきどって両手を腰の左右にくの字につっぱった。
「玩具《おもちゃ》の兵隊!」とだれかが声をかけた。かれはそれを聞いて脚《あし》を固くつっぱって歩くまねをしたので群集はどっとわらった。こういう滑稽な男が司会をしたということは会の威厳を損じたに違いないが、しかし二つの学校の生徒がしのぎをけずって戦おうという殺気立った会場を春のごとく平和にしたのはこの男のおかげである。
弁論の題はこの席上で多数決で決めることになっている。
各自の抱負《ほうふ》をのべること、
科学について、
英雄論、
この三つが提出された。英雄論を提出したのは手塚であった。司会者は採決した。英雄論が大多数をもって通過した。それはいかにも青年にふさわしき題であった。学生の眼はことごとく異様に輝き、その呼吸が次第にせまってきた。しかしだれあってまっさきに立つ者がなかった。すべてこういう場合に先登をする者はきわめて損である。いかんとなれば後の弁士に攻撃されるからである。中学生はことごとく手塚と柳の方を見やった。手塚はしきりにノートをくっている。光一は微笑している、師範学校側では野淵《のぶち》という上級生と矢島というのが人々に肩をつかれていた。黙々塾《もくもくじゅく》ではみながチビ公をめざした。チビ公は頭を縮《ちぢ》めてひっこんだ。と、突然演壇に立った青年がある。それは例の浜本彰義隊《はまもとしょうぎたい》であった。かれは剣道の稽古着に白いはかまをはき、紐《ひも》の横にきたない手ぬぐいをぶらさげたまま、のそのそとテーブルの上の水さしからコップで水を飲んだ。
「水を飲みにあがっちゃいかん」とだれかがいった。実際彰義隊は弁舌がへたなので何人《なんぴと》もかれが演説をすると思わなかったのである。
「満場の諸君!」
彰義隊はきっと直立して両手をはかまの紐《ひも》の間にはさみ、おそろしく大きな声でどなった。会衆はわっとわらいだしたがすぐしずかになった。
「満場の諸君!」とかれはふたたびいった。そうしてまた「満場の諸君!」とどなった。会衆はわくがごとくわらった。
「わが輩《はい》は英雄を崇拝する、わが輩は英雄たらんとしつつある。わが輩は諸君が英雄たることを望む、小説や音楽や芝居やさらにもっとも下劣なる活動写真を見るようなやつは到底《とうてい》英雄にはなれない。わが輩はそいつらをばかやろうと呼ぶ、今夜ここに英雄もきているだろうが、ばかやろうもなかなか多い、わが輩は片っ端からぶんなぐって首を抜いてやるからそう思え」
「脱線脱線」と叫んだものがある。
「なにを? ……」
「暴言はやめてく
前へ
次へ
全71ページ中66ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 紅緑 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング