大きな松の下で人影を見た。

         十二

 わが妹を誘惑《ゆうわく》して堕落《だらく》の境《さかい》にひきこもうとしつつあるチビ公をさがしまわった光一がいま松の下陰で見たのはたしかに妹文子の片袖《かたそで》とえび茶のはかまである。
「ひとりだろうか、ふたりだろうか」
 かれにはそれがわからなかった。十|幾本《いくほん》となく並んだ松と松との間はせまい。
「どうしてこんなところへ来てるんだろう、多分チビと一緒だろう」
 光一はこう考えた、だが急にふたりの前へ出たらふたりはおどろいて逃げるかもしれない。かれはこう思ってしずかに足をしのばした。と突然《とつぜん》横合いの松かげから口笛が起こった。と思う間もなく石のつぶてが四方から飛んできた。
「だれだ」と光一は背後を向いていった。が人の姿は見えない。菜の花畑の間や肥料小屋の間からさかんにつぶてが飛んでくる。
「卑劣なやつだ、でてこい」
 かれはこういいながら八方を睨《にら》んだ。そうしてふたたび文子の方を見やると文子の姿はもう見えない。
「しまった、どこへ逃げたろう」
 かれは血眼になってさがした。もうつぶては飛んでこないが、お宮の境内《けいだい》はしんとして人の音もない。風が出て松のこずえをさらさらと鳴らした。こまかい葉の影のところどころに春の日がこぼれたように大地に光っている。光一はお堂の前にでた。そこの桜《さくら》の下に千三が立っている。光一は赫《かっ》とした。かれは野猪《のじし》のごとく突進した。
「おい、チビ!」とかれは叫んだ。千三はおどろいて顔をあげた。かれはいま石獅子《いしじし》の写生をしていたのであった。
「やい、きさまはおれをだましたな、きさまはおれの妹をきさまは……きさまは……」
 あまりにせきこんだので光一の声が喉《のど》につまった。千三はあきれて目をきょろきょろさせた。かれは光一がいたずらにこんなことをいってるのだと思った。
「やい、きさまはここでなにをしてるんだ」
「ぼくは高麗《こま》犬の写生をしてるんだよ、どうもね、一つの方が口をあいて一つの方が口をしめてるのがふしぎでならねえ」と千三はいった。
「なにがふしぎだ、きさまがここにいる方がよっぽどふしぎだ、ばかやろう!」
「きみは本当にそんなことをいってるのか」と千三は改まった。
「あたりまえだ、きさまはおれの妹を誘惑したろう」
「ぼくが!」
「あそこの松のところで妹と話をしていたのだ、それをおれが見た、きさまから妹にやった手紙も見た、知らないとはいわせないよ、ばかッ」
「おい柳! どうしたというんだ、ぼくがきみの妹を? きみ! きみ! それは嘘《うそ》だ、とんでもないことだ、きみ、誤解しちゃいけないよ」
「白ぱっくれるなよ、おれには証拠がある」
「じゃ証拠を見せたまえ」
「証拠はこれだ」
 光一は拳骨《げんこつ》を固めて千三の横面をなぐった。あっと千三は頬《ほお》に手をあてた。かれは火のごとく顔を赤くしたがやがて目に一ぱいの涙をためた。
「きみはぼくをなぐったね」
「無論だ、文句があるならかかってこい」
「柳君!」と千三は光一の腕《うで》をとった。「きみは後悔《こうかい》するぞ、きみはぼくをそんな人間だと思っていたのか、きみは……」
「なにを? 生意気な」
 光一は千三を横に払《はら》った。千三は松の根につまずいて倒れた。筒袖《つつそで》の袷《あわせ》にしめた三尺帯がほどけて懐《ふところ》の写生帳が鉛筆と共に大地に落ちた。このときお宮の背後から手塚が現われた。
「やあ柳! どうしたのだ」と手塚がいった。
「こいつはね、不都合なことをするからこらしてやったんだ」
「チビじゃないか、おいチビ、おまえ一体生意気だよ、おまえはなんだろう、いま、ここで文子さんと話していたんだろう」と手塚はいった。
「ぼくはひとりだよ」と千三は起《た》とうともせず大地に座りながらいった。
「隠すなよ、おれがちゃんと見ていたんだ、なあ柳、こいつはゆだんがならないよ、気をつけたまえね、しかしこのくらいやっつけたら二度と悪いことはしまいから堪忍《かんにん》してやれ、可哀《かわい》そうに、おいチビ、改心しろよ」
 手塚は光一をなだめなだめして手を曳《ひ》いて去った。境内《けいだい》はふたたびもとの静寂《せいじゃく》にかえった。さらさらさらと動く松の梢《こずえ》の上に名も知らぬ小鳥が一つどこからともなく飛んできてさえずりだした。その間から遠くの空の白い雲が見える。千三は座ったまま動かなかった。かれはなにがなにやらわからなかった。かれの第一に感じたのは光一の乱暴! そのつぎに起こったのは金の力と腕の力の相異によってだまって侮辱に甘んじなければならぬ悲しさであった。柳は財産家の子だ、それに腕力が強い、貧乏で身体《からだ》が小さいおれは
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