章がうまいんです」
「このあいだ男の子と歩いているのをお松が見たそうだよ」
「男の子とだって歩きますよ、ぼくも女の子と道づれになることがある、隣の珠子《たまこ》さんが犬に追われたとき、ぼくはおんぶして帰ってきた」
「おまえはなんとも思わないかね」
「だいじょうぶですよお母さん、文子は決してばかなことはしませんよ、ぼくの妹です、あなたの娘です」
「そうかね、それならいいが」
母は安心して室《へや》をでた、あとでひとり光一はテーブルにほおづえをついて考えこんだ、文子が毎日|晩《おそ》く帰る、たまに早く帰っても道具をほうりだしたままどこかへでてゆく、それについては光一も面白からず思っている、のみならず、このごろはしみじみと話をしたこともない、母の言葉によってさてはなにかよからぬことがあるかも知らぬ、と思ったものの、母に心配をかけるのはなによりつらい、できることなら自分ひとりで事の実否《じっぴ》をきわめてみたい、そうして不幸にも妹に危険なことがあるなら母にも父にも知らさずに、自分ひとりで万事を解決してやろう、こう思ってわざと平気を装《よそ》うて母に安心さした。
だが文子ははたして悪魔の手に落ちたであろうか。
光一は、じっとそれを考えつづけるうちに階下《した》の方で文子の声がした。
「ただいま!」
光一は立ちあがった、二階を降りると文子は靴をはくところであった。
「文さん」と光一は呼びとめた。
「なあに?」
「どこへいくの?」
「お友達が待ってるのよ、テニスよ、今日は復讐戦《ふくしゅうせん》よ、大変よ」
「ちょっと待ってくれ」
「だって、もうおそいんですもの、ああ暑い、私汗がびっしょりよ」
かの女は風呂敷包みをほうりだしてさっさとでていった。光一は風呂敷包みを持ったまましばらく妹の後ろ姿を見送ったが、急に二階の書斎へかけあがった。かれは風呂敷包みを解いた、中から歴史や地理や図画や筆箱などがでた、かれはそれらを一つ一つしらべると雑記帳の間から一封の手紙が落ちた。封筒にはただ「文子様」と書いてある。
かれは中をひらいた。
「一昨日《おととい》逢って昨日《きのう》逢わなかった、いつものところへ来てください、今日《きょう》は大事な相談があります。文子さん……千三より」
「あっ」とばかりに光一は思わず声をあげた。
「千三! 千三! 青木か、ああ青木が……あのチビ公が、畜生《ちくしょう》!」
茫然《ぼうぜん》としりもちをついた光一の顔は見る見る火のごとく赤くなった。畜生! 恩知らず! あいつが文子を誘惑《ゆうわく》しているのだ、あいつが文子を誘惑しているのだ、あいつがおれもおれの父もあれだけにつくしてやったにかかわらず妹を誘惑して妹から銭を取りやがった、ああチビ公! そんなやつだとは思わなかった、おれは売られた、おれは……おれは……。
光一はそのまま二階を降りるやいなや、ぞうりをつっかけたまま家を出た、かれはまっすぐに千三の家へ走った。
「まあ坊ちゃん、せっかくおいでくだすったのに、千三は留守《るす》ですよ」と千三の母がいった。
「商売から帰らないのですか」
「今日はね、お昼前だけでお昼すぎから休みです、ボールへいったのじゃありますまいか」
「さようなら」
光一はすぐ引きかえして黙々塾《もくもくじゅく》へでかけた。塾《じゅく》にはだれもいなかった。光一はひっかえそうとすると窓から瘠《や》せたひげ面《づら》がぬっと現われた。
「やあ柳君、ちょっとはいれ」
「ぼくは急ぎますから失礼します」
「なに? 急ぐ? 男子たるものが事を急ぐという法があるか、急ぐという文字は天下国家の大事な場合にのみ用うべしだ」
「ですが先生、ぼくは……」
「敵に声をかけられておめおめ逃げるという卑怯者《ひきょうもの》は浦中にあるかも知らんが、黙々塾《もくもくじゅく》にはひとりもないぞ」
「じゃ簡単にご用向きをうかがいましょう」と光一は中腹《ちゅうっぱら》になっていった。
「よしッ、じゃきみにきくがきみは水を飲むか」
「飲みます」
「一日|何升《なんじょう》の水を飲むか」
「そんなに飲みません」
「いかん、人間は毎日二升の水を飲むべしだ、顔回《がんかい》は一|瓢《ぴょう》の飲といったが、あれは三升入りのふくべだ、聖人は」
「さようなら」
光一はたまらなくなって逃げだした。
「ばかにしてやがる、塾長《じゅくちょう》があんな風だから弟子共までろくなものがない、あん畜生! チビのやつ、どこへいったろう」
光一は赫々《かっかく》と燃え立つ怒りにかられながら血眼になって千三を探しまわった、かれは大抵《たいてい》千三が散歩する道を知っていたので調神社《つきのみやじんじゃ》の方へ走った。かれは夢中に並み木と並み木の間をのぞいたりお宮をぐるぐるまわったりした。と、かれはふと
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