、もしかれが恥を知る学生であったなら、本当の正しき魂がある少年であるなら、国定忠治《くにさだちゅうじ》だの鼠小僧だの、ばくち打ちやどろぼうのまねを恥ずべきはずだが、かれにはそんな良心はなかった、かれはただ人まねがしたいのである、実際かれはそれがじょうずであった、かれはしゃものような声で弁士の似声《こわいろ》を使ったり、また箒《ほうき》を提《さ》げて剣劇のまねをするので女中達は喜んで喝采した。
「坊っちゃまはお上手《じょうず》でいらっしゃること」
「男ぶりがいいから役者におなんなさるといい」
 この声々を聞くと手塚はすこぶる得意であった、それと同時に母は鼻の下を長くして喜んだ、かれの母はすべて芸事が好きで一月《ひとつき》に三度は東京へ芝居見物にゆくのである。
 父は患者をことわっておおかみのような声で謡《うたい》をうたう、母は三味線《しゃみせん》を弾《ひ》いてチントンシャンとおどる、そうして手塚は箒《ほうき》をふるって、やあやあ者共と目玉をむき出す。大抵《たいてい》この場合に箒で斬られる役になるのは代診の森君や車夫の幸吉である。だが森君も幸吉もそうそうはいつも斬られてばかりいられぬ、たまに癇癪《かんしゃく》を起こして国定忠治を縁側からほうりだすことがある。そこで手塚の機嫌が悪くなる、したがって奥様も、だんな様も一家が不機嫌になる。
 それやこれやで家の中ばかりの芝居は面白くなくなった、そこで手塚は同志を糾合《きゅうごう》して少年劇をやろうと考えた。幸いなことにろばの父は製粉工場の番人である、この工場は二年前に破産していまではなかば貸し倉庫のようになっている、その一部分だけでも優《ゆう》に芝居に使用することができる。
 手塚は毎日そこへ出張して芝居の稽古をした、かれは監督であり座長であった、ろばは敵役《かたきやく》や老役《ふけやく》を引きうけた、新ちゃんは母親やお婆さんになった、若くてきれいで人気のある役は手塚が取ったが、ここに一番困ったのは若い娘に扮《ふん》する女の子がないことである、手塚はそれを文子にあてた。
「いやよ、私いやよ」と文子は顔をまっかにして拒絶《きょぜつ》した。
「いやならいいよ、ぼくはあなたのお母さんにたのんでくる、これこれのわけで文子さんはぼくらの仲間になったのだからってね」
 文子は当惑《とうわく》した、母に秘密をあばかれては大変である。
「じゃ私やるわ」
 毎日集まるたびに一同は何か食べることにきまっていた、うなぎやてんぷら、支那料理、文子はいろいろなものをご馳走になった、それらの費用は大抵《たいてい》手塚からでた。だが手塚とても無尽蔵ではない、かれも次第に小遣《こづか》い銭に困りだした。
「文子さん、どうにかならないか」
 毎日人のご馳走になってすましているわけにゆかない、文子は母に貰った小遣《こづか》い銭を残らずだした、二、三日すぎてかの女は貯金箱に手をつけた、それからつぎに本を買うつもりで母をだました。そうしなければ秘密をあばかれるからである。こういう状態をつづけてるうちにかの女はだんだんこの団体の不規則で野卑な生活が好きになった、母の前で行儀《ぎょうぎ》をよくしたり、学校の本を復習したりするよりも男の子と遊んで食べたいものを食べているほうがいい。
 文子の母はいままでとうってかわった文子の態度に気がついた。かの女は文子をきびしくいましめようと思った、だがその原因をきわめずにいたずらにさわぎを大きくしてはなんの役にも立たぬ、これにはなにか力強い誘惑《ゆうわく》があるにちがいない。
 こう思うものの悲しいかなかの女はそれを探偵すべき手がかりがないのであった、父にいえばどんなに叱《しか》られるかしれない、十六にもなれば人の目につく年ごろだからめったなことをして奉公人共に後ろ指をさされることになると、あの子の名誉にもかかわる、さりとてうちすておくこともできない。
 わが子を叱りたくはないが、叱らねば救うことはできない、母は思案に暮れた。かの女はとうとう光一の室《へや》へいった。
「光一、おまえに相談があるんだが……」
「なんですか、なにかうまいものでもぼくにくれるの?」と光一は微笑していった。
「それどころじゃないよ、文子のようすがこのごろなんだか変だとおまえは思わない?」
「変ですな」
「そうだろう」
「ほっぺたがますますふくれる」
「そんなことじゃない、学校の帰りが大変におそい」
「居残りの稽古があるんです」
「でもね、お金使いがあらいよ」
「本を買うんです、いまが一番本を買いたい年なんです、ぼくにも少しください」
「おまえのことをいってるんじゃないよ、本当に文子が本を買うためにお金がいるんだろうか」
「そうです」
「でも毎晩なんだか手紙のようなものを書いてるよ」
「作文の稽古ですよ、あいつなかなか文
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