うか」
こう思って暗い地面を探り探り並み木の間を歩いた。いままで気がつかなかったがこのとき足の拇指《おやゆび》が痛みだした。手をやってみると生爪《なまづめ》がはがれてある、かれは大地に座りこんだ。そうしてへこ帯をひきさいて足を繃帯《ほうたい》することに決めた。
とどこからとなく人の声が聞こえる。
「きたか」
「まだまだ」
「気をつけろよ」
「にがしちゃいかんよ」
ひとりの声は手塚らしい。あとは四、五人、しのびしのびに三方に埋伏《まいふく》する。
「なにをしてるんだろう」
千三はこう思った。こういうことはめずらしくない。青年の喧嘩だ。毎日一つぐらいはあるのだ。
「だがねえ、文子はこのごろちっともこないじゃないか」
ひとりの声がきこえる。
「手紙を見られたらしいよ」と他の声。
「見られてもかまやしない、あれはねチビの名にしてあるんだから……はッはッはッチビのやつそれでひどくなぐられたっけ」
千三の総身がぶるぶるとふるえた。かれははじめてそれが手塚の奸策《かんさく》だと知ったのである。かれは立ちあがってかれらのあとを追いかけようと思った。が足の痛みは骨をえぐられるようにはげしい。
「待て畜生《ちくしょう》! ああいまいましいな」
千三は足をきびしくしばった。そうして残りの布《きれ》ではなおをすげた。とこのとき五、六間先に叫び声が起こった。
「なにをするんだ」
「たたんでしまえ、やれやれ」
「どこだ」
「ここだ」
「こん畜生《ちくしょう》!」
なぐり合う音、倒るる音、ばたばたと走る音。
「おいおいみんなこい」とよぶ声。
「生意気な、きさまは手塚だな」
こういう声は光一であった。千三ははっとおどりあがった。かれは片方のげたを手に持ったまま走りだした。と見ると三人を相手に光一は奮闘|最中《さいちゅう》である。一旦《いったん》逃げたふたりは引きかえして共に光一につかみかかった。光一は一人《ひとり》の頭をけった。けられながらにその男は光一の脚《あし》を一生懸命につかんだ。背後《うしろ》から光一の喉をしめているのはろばらしい。手塚は前へ出たり後ろへ出たりして光一の顔を乱打した。五人と一人《ひとり》かなうべくもない。
「柳、しっかりしろ」
千三はこう声をかけて手に持ったげたで手塚の横面をしたたかに打った。
「チビ!」
手塚は叫んで鼻に手をあてた。千三はろばの顔を打とうとしたが小さいのでとどかなかった。かれはおどり上がった。が足の痛みがますますはげしい。かれは手塚に首根をおさえられた。手塚は力まかせにチビをなぐった。なぐられながらチビは手塚の手をしっかりとつかんではなさない。
「だいじょうぶか柳」とチビが苦しそうにいった。
「だいじょうぶだ。青木、すまないな」と光一はいった。そうしてもののみごとにろばを大地にたたきつけた、その拍子《ひょうし》にかれは片ひざを折った。三人はその上におりかさなった。
「なにを……くそッ」
こういう光一の声はおぼつかなく聞こえた。
「やられたな」
こうチビは思った。とたんに手塚の手がぐたりとゆるんだ。と思うやいなや手塚はさながら犬の屍《しかばね》のごとくたたきつけられた。
「青木じゃないか」
「ああ安場さん」
「うむ、おれだ」
「柳を助けてください」
「よしッ」
安場がひらりと動いた。ふたりの姿がもんどりうって倒れた。いまひとりは光一がしっかりとひざに組みしいていた。
「しばれしばれ」と安場がいった。
「しばるものがない」
「ふんどしでしばれ」
「ぼくはさるまただ」
「心がけの悪いやつだ」
「安場さんのは?」
「おれは無フンだ」
千三はまたしても帯をといて手塚をしばりあげた。投げられたろばといまひとりは安場がしばった。安場は三人を電柱にしばりつけた。
光一の横顔は腫《は》れ、手首はくじかれていた。千三にはなんのけがもない。
「おい青木」と光一は千三の前にひたと座っていった。「おれをなぐってくれ、おれは悪かった、さあおれがきみにしたようにおれの顔のどこでもなぐってくれ」
「なにをいうか柳」と千三は光一にひたとより添うて手をしっかりとにぎった。
「ぼくは今夜きみの演説で真の英雄がわかった、ぼくらはおたがいに英雄じゃないか、正義の英雄だよ」
「ゆるしてくれるか」
「ゆるすもゆるさんもないよ」
「ありがとう」
ふたりはふたたび手をにぎりしめた。
「やい、凡人主義のデモクラシーの偶像破壊者共」と安場は三人に向かっていった。
「平等と自由はどんなものか明日《あした》の朝までそこで考えて見ろ」
「なわだけはといてやってくれ」と光一が安場にいった。
「いやいや」と安場は頭をふった。「英雄にしばられてなわをとくのはデモクラシーの役目なんだ、さあゆこう」
こういって安場はマッチをパッとすって三人の顔を見た
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