らそんなことはできないから、一高で一緒になろう、もう二、三年経てばぼくの家も楽になるから」
「検定《けんてい》を受けるつもりか」
「ああ、そうとも」
「じゃ一高で一緒になろう、きみがショートでぼくが投手で小原さんが捕手だったら愉快だな」
 ふたりは顔を見るたびにそれを語りあった。ふたりははたして一高で一緒になり得《う》るだろうか、いまは読者にそれをもらすべきときでない。とにかく花はさき花は散り、月日は青春の希望と共に伸びやかに輝きながらうつりゆく。柳光一は四年生になった。
 そのころ学校内で奇怪な風説が伝わった、生徒の中で女学生と交際し、ピアノやバイオリンの合奏をしたり、手紙を交換したり、飲食店に出入りしたりするものがある、いまのうちに探しだして制裁を加えなければ浦和中学の体面に関する。
 憤慨の声々が起こった。
「だれだろう」
「だれだろう」
 最初のうちはこの風評をとりあげるものはなかった。
「師範のやつらがいいふらしたんだ」
 実際それは師範生徒からでたうわさである、師範生徒は中学生にくらべると学資も少ないし、また富める父兄をもたぬところからなにかにつけて不自由勝ちである、それに反して中学生は多くは相当の資産ある家の子である、かれらは自由にぜいたくなシャツを買い、ハイカラな文房具を用い、活動や芝居などを見物し、洋食屋へも出入りする、そうさせることを不純だと思わない父兄が多いのである。
 寄宿舎に閉じこめられてかごの鳥のごとく小さくなっている師範生の目から見ると、中学生の生活はまったく不潔であり放縦《ほうじゅう》であり頽廃的《たいはいてき》である。
 久保井校長のつぎにきた熊田校長というのはおそろしく厳格な人であった、久保井先生は温厚で謙遜で中和の人であったが、熊田先生は直情径行《ちょくじょうけいこう》火のごとき熱血と、雷霆《らいてい》のごとき果断をもっている。もし久保井校長が春なら熊田校長は冬である、前者は春風|駘蕩《たいとう》、後者は寒風|凛烈《りんれつ》! どんなに寒い日でも熊田校長は外套《がいとう》を着ない、校長室に火鉢もおかない、かつて大吹雪《おおふぶき》の日、生徒はことごとくふるえていた日、校長は校庭にでて雪だるまを転がしまわった、その髪となく目となく口となく、雪だらけになったが少しもひるまなかった。
 久保井先生が去ってからつぎにきたるべき校長に対して生徒も町の人も一種の反感をもっていた、だが日を経《ふ》るにしたがって新校長の実践躬行《じっせんきゅうこう》的な人格は全校を圧し、町を圧しいまではだれひとり尊敬せぬものはない。
「黙々《もくもく》先生と熊田先生とどっちがこわいだろう」
 町の人々はこううわさした。それだけ厳格な熊田先生が今中学校内に不良少年があると聞いたのだからたまらない。
「厳罰《げんばつ》に処すべしだ、よく調べてくれ」
 校長の命令に職員は目を皿のごとく大きくしてさがしたてた。
 と、まただれがいうとなくそれは手塚だといううわさが立った。このことを申し立てたのは中村という同級生であった、中村は善良な青年だが、思慮にとぼしく言葉が多いのが欠点である、かれは学校中のすべてのことを知っているのでみながかれを探偵と呼んでいた、だがこの探偵は決して人に危害を加えない、口からでまかせにすきなことをしゃべりちらして喜んでいるだけである。中村は手塚が昨日《きのう》不良少女と活動写真館からでたのを見た、そうして後をつけていくと洋食屋へはいったというのであった。
 級の重なるものが五人集まって相談会を開いた、もし手塚であるなら同級の恥辱だからなんとかいまのうちに相当の手段を講じなければなるまい。これが会議の主眼であった。
「きゃつは一体生意気だからぶんなぐるがいいよ」
 と浜本という剣道の選手がいった。浜本はすべてハイカラなものはきらいであった、かれは洋服の上にはかまをはいて学校へ来たことがあるので、人々はかれを彰義隊《しょうぎたい》とあだ名した。
「なぐる前に一応忠告するがいいよ」と渋谷がいった、渋谷は手塚と親しかった、かれは日曜ごとに手塚の家へいってご馳走《ちそう》になるのであった。かれはまた手塚から真珠入りの小刀だの、水晶のペンつぼなどをもらった。かれが手塚をかばったことがかえって一同の憤激をたきつけることになった。
「ばかッ、きさまは医者の子からわいろをもらってるからそんなことをいうんだろう、だれがなんといってもおれはなぐる、あいつは一体小利口で陰険だぞ」
「そうだそうだ」とみなが賛成した。
「いつか生蕃《せいばん》カンニング事件のときにも生蕃は手塚の犠牲《ぎせい》にされたんだぞ」
 こういうものもあった。
「待ってくれ」と光一はいった。「一体手塚のなにが悪いんだ、問題の要点がぼくにわからないから説明して
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