ぐに考えなおした。
「いやいや、ぼくのお情けの球を打って喜ぶ青木ではない、そんなことはかえって青木を侮辱《ぶじょく》しかつ学校と野球道を侮辱するものだ」
 実際敵の走者が第一第二塁にある、少しもゆだんのならぬ場合である、かれは捕手のサインを見た、小原はすでに青木をあなどっている、かれは第一にウェストボールをサインした、第二もまた……第三には直球である。それは青木の予想するところであった。
 かれは光一の球が燦然《さんぜん》たる光を放ってわが思う壺《つぼ》をまっすぐにきたと思った、かれは八分の力をもってふった。
 わっという喊声《かんせい》と共に千三は球がたしかに手塚に取られたと思った、が球は手塚の靴先にバウンドした、手塚はダブルプレーを食わして喝采《かっさい》を博そうとあせったのでスタートをあやまったのである、かれはバウンドした球をつかもうとしてグローブの上ではね返した、ふたたび拾おうとしたとき二塁手と衝突《しょうとつ》して倒れた。かれは起きあがったがあわてたために球が見えなかった、球はかれの靴のかかとのところにあったのである。
「ボールがボールが」とかれは悲鳴をあげた。中堅手がそれを拾うてホームへ投げた、がこのときはすでにおそかった、五大洲とクラモウは長駆《ちょうく》してホームへ入り、千三は三塁にすべり込んだ。
「バンザアイ」
 天地をゆるがすばかりに群集は叫んだ、この叫びがおわらぬうちにすぐにふしぎな喝采が起こった。
 松の枝に乗っていた覚平と善兵衛はバンザイを叫んだ拍子《ひょうし》に両手をあげたので、松の上から転がり落ちたのであった。落ちたまま覚平はらっぱをふくことをやめなかった。
「ぷうぷうぽうぽう」
「バンザアイ」
 こうなってくると黙々隊《もくもくたい》は急に活気づいてきた。一塁手の旗竿《はたざお》は二塁打を打って千三が本塁に入った。黙々《もくもく》は一点を勝ち越した。つぎのすずめはバウンドを打って旗竿《はたざお》を三塁に進めた。
 とつぎには安場の作戦が奇功を奏《そう》し、スクイズプレーでまた一点を取った。
 浦中は必死になった、小原、柳は死に物狂いに戦った、が千三の快技はあらゆる難球を食いとめた、かれはしっかりと腹を落ちつけた、かれの頭は透明で気がほがらかであった。
 七==五
 黙々は勝った、波濤《はとう》のごとき喝采が起こった、中立を標榜《ひょうぼう》していた師範生はことごとく黙々の味方となった。安場が先頭になって一同は中学の門前で凱歌《がいか》をあげた、そうして町を練り歩いた。町々では手おけに水をくんで接待したのもあった。善兵衛は自分の店のみかんを残らずかつぎ込んでみかんをまきながら選手の後について行った。一同は喜び勇んで塾《じゅく》へ帰った。かれらは塾の前でみんなシャツを脱ぎ、へそをだして門内へはいった。
 先生は一帳羅《いっちょうら》の羽織とはかまをつけて出迎えた。
「勝ちました」と安場がいった。
「それは最初からわかってる」と先生がいった、そうして「ボールをやると同じ気持ちで学問をすれば天下の大選手になれる」とつけくわえた。

         十

 へその秘伝をおぼえてから千三はめきめきと腕が上達した。浦中と黙々は復讐戦《ふくしゅうせん》をやる、そのつぎには決勝をやる、復讐のまた復讐戦をやるという風にこの町の呼《よ》び物《もの》になった。
「チビ公のやつ、どうしておれの球をあんなに打つんだろう」
 光一はふしぎでたまらなかった、実際千三はいかなる球をも打ちこなした、対師範校との試合にはオールヒットの成績をあげた。それは光一に取ってもっとも苦しい敵であったが、しかし光一はそのためにおどろくべき進歩を示した、かれはどうかしてチビ公に打たれまい、チビ公を三振させようと研究した。昔|武田信玄《たけだしんげん》と上杉謙信《うえすぎけんしん》はたがいに覇業《はぎょう》を争うた、その結果として双方はたがいに研究しあい、武田流の軍学や上杉風の戦法などが日本に生まれた。もっともよき敵はもっともよき友である、他山の石は相《あい》砥礪《しれい》して珠になるのだ。千三があるために光一が進み、光一があるために千三が進む。
 戦場においては敵となりしのぎをけずって戦うものの光一と千三は家へ帰ると兄弟のごとく親しかった。
「今日《きょう》は一本も打たせなかったね」
「このつぎにはかならず打つぞ」
 二人はわらって話し合う。どんなに親しい間柄でも公《おおやけ》の戦場では一歩もゆずらないのがふたりの約束であった。時として光一は家へ帰ってもものもいわずにふさぎこんでることがある、だが千三がたずねてくるとすぐ愉快な気持ちになるのであった。
 あるとき光一はまじめな顔をしてこういった。
「青木君、ぼくの学校へ入学したまえよ」
「いまさ
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