けに移してわらじをはいている。
「伯父さん、ぼくが商売に出ますから伯父さんはやすんでください」
と千三はいった。
「今日《きょう》は日曜だからおまえは休め、おまえは今日大事な戦争にゆかなきゃならないじゃないか」
「野球は午後ですから、朝だけぼくは売りにでます」
「いやかまわない、わしもおひるからは見物にゆくぞ、しっかりやってくれ」
「ありがとう伯父さん、それじゃ今日は休ましてもらいます」
「うむ、うまくやれよ、金持ちの学校に負けちゃ貧乏人の顔にかかわらあ[#「かかわらあ」は底本では「かからあ」]」
伯父さんはこういってらっぱをぷうと鳴らしてでていった。千三は井戸端《いどばた》へでて胸一ぱいに新鮮な空気を呼吸した、それからかれはすっぱだかになって十杯のつるべ水を浴びて身をきよめた。
「どうぞ神様、ぼくの塾《じゅく》をまもってください」
じっと目を閉《と》じて祈念するとふしぎにも勇気が次第に全身に充満する。朝飯をすまして塾へゆくと安場がすでにきていた。一|分時《ぷんじ》の違いもなく全員がうちそろうた。そこで先生が先頭になって調神社《つきのみやじんじゃ》へ参詣する、それから例の空《あ》き地《ち》へでて猛烈な練習をはじめた。
春もすでに三月のなかばである、木々のこずえにはわかやかな緑がふきだして、桜《さくら》のつぼみが輝きわたる青天に向かって薄紅《うすべに》の爪先《つまさき》をそろえている。向こうの並《な》み木《き》は朝日に照らされてその影をぞくぞくと畑道の上に映《うつ》していると、そこにはにわとりやすずめなどが嬉しそうに飛びまわる。
昨夜《ゆうべ》熟睡したのと、昨日一日練習を休んだために一同の元気はすばらしいものであった、安場はすっかり感激した。
「このあんばいではかならず勝つぞ」
一同は練習をおわって汗をふいた。
「集まれい」と先生は号令をかけた、一同は集まった。
「みんなはだかになれ」
一同ははだかになった。
「へそをだせい、おい」
一同はわらった、しかし先生はにこりともしなかった。一同はさるまたのひもをさげてへそをだした。先生は第一番の五|大洲《だいしゅう》(投手)のへそのところを押してみた。
「おい、きみは下腹《したはら》に力がないぞ、胸のところをへこまして下腹をふくらますようにせい」
「はい」
先生はつぎのクラモウのへそを押した。
「おい、大きなへそだなあ」
「ぼくはいま力を入れてつきだしてるのです」
「いかん、へそのところをつきだすのじゃない、へその下へ食べたものをみんなさげてやるんだ、いいか、胸がせかせかして負けまい負けまいとあせればあせるほど、下腹がへこんで、肩先に力がはいり、頭がのぼせるんだ、味方が負け色になったらみんなへそに気をおちつけろ、いいか、わすれるな、黙々塾《もくもくじゅく》は一名へそ学校だぞ、そう思え」
先生はひとりひとりにへそを押してみた。
「あまり押すと先生、小便がもります」と二塁手のすずめがいった。そこで先生もわらった。
その日の試合は製粉会社の裏の広場でやることになった、中学の運動場は修繕のために使用ができなかった、朝からの快晴でかつ日曜であるために見物人はどしどしでかけた、豆腐屋の覚平は早く商売をしまって肩にらっぱをかけたままでかけた、見ると正面に大きな網《あみ》をはり、白い線を大地に引いて、三ヵ所に大きなまくらのようなものをおいてある、二本の長い線の両側に見物人が陣どっているが、草の上に新聞紙を敷いて座ってるのもあり、またむしろやこしかけを持ち出したのもあった。覚平はかくまで野球が人気をひくとは思いもよらなかった。かれは野球とはどんなことをするものか知らなかった。かれは豆腐おけをになって町を歩くとき、おりおり子供等に球を頭にあてられたり背骨を打たれたりするのでむしろ野球に対して反感をいだいていた。
「すりこぎをふりまわすなんてつまらねえまねをするもんだ」
こうかれはいつもいった、だがいまきてみると子供等ばかりでなく、労働者も商人も紳士《しんし》も役人も集まっている。
「大変なことになったものだ」
かれは肝《きも》をつぶしてまごまごしていると後ろから声をかけたものがある。
「覚平さん」
ふりかえるとそれは八百屋の善兵衛であった、善兵衛はなによりも野球が好きであった、野球が好きだというよりも、野球を見ながらちびりちびりと二合の酒を飲むのが好きなのである、かれもあまり野球の知識はないほうだが、それでも覚平よりはすべてを知っていた。
「やあおまえさんもきてるね」と覚平がいった。
「おらあハア三度のご飯を四度食べても野球は見たいほうで」と善兵衛がいった。
「おれにゃわからねえ」と覚平がいった。
「じゃおらあ教えてやるべえ」と善兵衛はいった。
「ところで一杯どうです」
「これ
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