砲玉のようなおそろしく早い球はぶんぶんうなって飛んでくる。選手はいずれも汗だらけになって走りまわる。それがおわるとフリーバッティングをやる、それも投球するものは先生である。先生の球はノックのごとくコントロールが悪い、右に左に頭上高く、あるいは足元にバウンドし、あるいは腰骨を打つ。
「先生! まっすぐな球をください」と千三がいう。
「ばかッ敵はいつもまっすぐに投《ほう》るかよ」
それがおわると先生は千三に投球させて自分で五、六本を打つ。だが先生の造ったバットはこぶこぶだらけなので、打った球はみんなファウルになり、チップになる。で先生が満足に打つまで球を投《ほう》らなければ機嫌が悪い、ようやく直球を一本打つと先生はにっこり[#「にっこり」に傍点]と子どもらしくわらう、そうしてこういう。
「おれの造ったバットはなかなかいいわい」
練習がすむと先生は一同にいもを煮《に》てくれる、それが何よりの楽しみであった。だが先生は野球のために決して学課をおろそかにしなかった、もし生徒の中に学課をおこたる者があると先生は厳然として一同を叱《しか》りつける。
「野球をやめてしまえッ」
このために生徒は一層《いっそう》学課にはげまざるを得なかった。
日がだんだん迫《せま》ってきた、ある日安場がきた、コーチがすんで一同が去った後、先生はいかにも心配そうに安場にいった。
「今度中学校に勝てるだろうか」
「さあ」と安場は躊躇《ちゅうちょ》した。
「どうかして勝たしてもらいたい、わしが生徒に野球をゆるしたのは少し考えがあってのことだ、この町のものは官学を尊敬して私学を軽蔑《けいべつ》する、いいか、中学校や師範学校の生徒はいばるが、黙々塾《もくもくじゅく》の生徒は小さくなっている、なあ安場、きみもおぼえがあるだろう」
「そうです、ぼくもずいぶん中学校のやつらにばかにされました」
「そうだ、金があって時間があって学問するものは幸福だ、わしの塾《じゅく》の生徒はみんな不幸なやつばかりだ、同じ土地に生まれ同じ年ごろでありながら、ただ、金のために甲《こう》は意気|揚々《ようよう》とし乙《おつ》は悄然《しょうぜん》とする、こんな不公平な話はないのだ、いいか安場、そこでだ、わしは生徒共の肩身を広くさしてやりたい、金ずくではかなわない、かれらの学校は洋風の堂々たるものだ、わしの塾《じゅく》は壁が落ち屋根がもり畳《たたみ》がぼろぼろだ、生徒は町を歩くにいつも小さくなってしょぼしょぼ[#「しょぼしょぼ」に傍点]している、だからせめて野球でもいいから一遍《いっぺん》勝たしてやりたい、実力のあるものは貧富にかかわらず優勝者になれるものだということを知らしめたい、師範生も中学生も黙々生《もくもくせい》も同等のものであると思わせたい、大手をふって町を歩く気にならせたい、だからどうしても今度は勝たねばならん、わしもこの年になって、なにをくるしんですっぱだかになって空《あ》き地《ち》でバットをふり生徒等を相手に遊んでいたかろう、生徒の自尊心を養成したいためだ、そうして一方において町の人々や官学崇拝者を見かえしてやりたいためだ、野球の勝敗は一小事だが、ここで負ければわしの生徒はますます自尊心を失い肩身を小さくする、実に一大事件だ、なあ安場、今度こそはだ、なあおい、しっかりやってくれ」
先生の声は次第に涙をおびてきた。
「先生!」
安場は燃ゆるような目を先生に向けていった。
「ぼくもそう思ってます、ぼくはかならず勝たしてごらんに入れます」
安場は翌日規則正しい練習をした、一回二回三回一同は夜色が迫るまでつづけた。いよいよ明日《あす》になった土曜日の早朝から一同が集まった。
「今日《きょう》は休むよ」と安場はいった。
「明日《あす》が試合ですから、是非今日一日みっちりと練習してください」
と一同がいった。
「いやいや」と安場は頭をふった。
「今日はゆっくり遊んで晩には早く寝ることにしよう、いいか、熟睡するんだぞ、ひとりでも夜ふかしをすると明日は負けるぞ」
その日は一日遊んで安場は東京における野球界の話を聞かしてくれた、かれは一高と三高の試合の光景などをおもしろく語った。一同はすっかり興奮《こうふん》して目に涙をたたえ、まっかな顔をして聞いていた。
その夜千三は明日《あす》の商売のしたくをおわってから窓から外を見やった、外は暗いが空はなごりなく晴れて星は豆をまいたように輝いていた、千三は明日《あす》の好天気を予想してしずかに眠った。
目がさめると、もう朝日が一ぱいに窓からさしこんですずめの声が楽しそうに聞こえる。
「やあ寝過ごした」と千三はあわてて飛び起きた。
「もっと寝ててもいいよ」と伯父さんはにこにこ[#「にこにこ」に傍点]して店から声をかけた、かれはもう豆腐《とうふ》をお
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