まっすぐにすう[#「すう」に傍点]と地をすってくるもの、左に旋回《せんかい》するもの、右に旋回するもの、約十種ばかりの性質によって握《にぎ》り方をかえなければならぬ。チビ公は無意識ながらもそれを感じた。
一生懸命に汗を流してけずり上げた先生のバットはあまり感心したものでなかった。それはあらけずりのいぼだらけで途中にふしがあるものであった。
「なんだこれは」
「すりこぎのようだ」
「犬殺しの棒だ」
「いやだな、おまえが使えよ」
「おれもいやだ」
少年共はてんでにしりごみをした。さりとてこれを使わねば先生の機嫌が悪い。一同は途方《とほう》に暮れた。
「ぼくのにする」とチビ公はいった。「このバットには先生がぼくらを愛する慈愛《じあい》の魂がこもってる、ぼくはかならずこれでホームランを打ってみせるよ、ぼくが打つんじゃない先生が打つんだ」
九
浦和中学と黙々塾《もくもくじゅく》が野球の試合をやるといううわさが町内に伝わったとき人々は冷笑した。
「勝負になりやしないよ」
実際それは至当《しとう》な評である、浦和中学は師範学校と戦っていつも優勝し、その実力は埼玉県を圧倒しているのだ、昨日《きのう》今日《きょう》ようやく野球を始めた黙々塾《もくもくじゅく》などはとても敵し得《う》べきはずがない。それに浦中の捕手は沈毅をもって名ある小原である。投手の柳は新米だがその変化に富める球と頭脳《ずのう》の明敏ははやくも専門家に嘱目《しょくもく》されている、そのうえに手塚のショートも実際うまいものであった、かれはスタートが機敏で、跳躍《ジャンプ》して片手で高い球を取ることがもっとも得意であった。
「練習しようね」と柳は一同にいった。
「練習なんかしなくてもいいよ、黙兵衛《もくべえ》のやつらは相手にならんよ」と手塚がいった。
「そうだそうだ」と一同は賛成した。だが二、三日経ってから小原が顔色をかえて一同を招集した。
「ぼくは昨日《きのう》黙々《もくもく》の練習を見たがね、火のでるような猛練習だ、それに投手の五大洲はおそろしく速力《スピード》のある球をだす、あのうえにもしカーブがでたらだれも打てやしまい、ショートのチビ公もなかなかうまいし、捕手《ほしゅ》のクラモウはロングヒットを打つ、なかなかゆだんができないよ、一たい今度の試合は敵に三分の利があり味方に三分の損《そん》がある、敵は新米だから負けてもさまで恥にならないが、味方は古い歴史を持っているから、もし負ければ世間の物笑いになるよ」
「あんなやつはだいじょうぶだよ」と手塚はいった。
「そうじゃない、もしひとりでも傑出した打手があってホームランを三本打てば三点とられるからね、勝負はそのときの拍子《ひょうし》だ、強いからってゆだんがならない」
「だからぼくは練習をしようというんだ、青木千三は小学校時代には実にうまかったからね、身体《からだ》が小さいがおそろしいのはかれだよ」
と光一はいった。
「豆腐屋のごときは眼中にないね」と手塚がいった。
「それがいけないよ手塚君、きみはうまいけれども敵をあなどるのは悪いくせだ、ぼくは青木の方がぼくよりうまいと思う」
「きみは青木を買いかぶってるよ、あいつはまだ腰が決まらない」
「いざとなれば強くなるよ」
「弱虫だねきみは」と手塚は嘲笑した。
「君よりか青木の方がうまい」と光一も癪《しゃく》にさわっていった。
「あんなやつにくらべられてたまるものか」
多人数の前なので手塚は虚勢を張っていった。
「そうじゃない手塚」と小原はどなった。「おまえはいつもうまいと人に見られようと思って、片手で球をとったりする、あれはよくないぞ、へたに見られてもいいから健実でなけりゃいけない」
先輩の一言に手塚は顔を赤《あから》めてだまった。その日から練習をはじめた。
一方|黙々塾《もくもくじゅく》では学業のひまひまに猛練習をつづけた。だが家業がいそがしいために練習にくることのできない者もあるので、人数はいつもそろわなかった、安場は日曜以外には帰省しない、ここにおいて黙々先生が自身に空《あ》き地《ち》へ出張した、先生は野球のことをよくは知らない、がかれは撃剣の達人なので打撃はうまかった、かれはさるまた一つとシャツ一枚の姿で、自製のバットでノックをする、それは実に奇妙ふしぎなノックであった、先生の打つ球には方向が一定しない、三塁へいったり一塁へいったり、ゴロかと思えば外野へ飛んだり、ファウルになったり、ホームランになったりする。
「先生! シートノックはシートの方へ打ってください」と千三が歎願した。
「ばかッ、方向がきまってるならだれでもとれる、敵はどこへ打つかわかりゃしないじゃないか」
先生はこういって長いバットを持って力のありたけで打つのだからたまらない、鉄
前へ
次へ
全71ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 紅緑 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング