はこれは」
 ふたりは一つのさかずきを献酬《けんしゅう》した。善兵衛はいろいろ野球の方法を話したが覚平にはやはりわからなかった。
「つまり球を打ってとれないところへ飛ばしてやればいいんです」
「なるほどね」
 ふたりが草に座ってかつ飲みかつ語ってるうちに見物人は刻々《こっこく》に加わった。中学の生徒は制服制帽整然とうちそろうて一塁側に並んだ。その背後には中学びいきの大人《おとな》連が陣取っている、その中に光一の伯父さん総兵衛《そうべえ》がその肥《ふと》った胸を拡げて汗をふきふきさかんに応援者を狩《か》り集めていた、かれは甥《おい》の光一を勝たせたいために商売を休んでやってきたのである。
 この日師範学校の生徒は黙々塾《もくもくじゅく》に応援するつもりであった、師範と中学とは犬とさるのごとく仲が悪い、だがこの応援は中止になった、いかんとなれば審判者《しんぱんしゃ》は師範の選手がたのまれたからである、で師範は中立隊として正面に陣取った。
「早く始めろ」
「なにをぐずぐずしてるんだ」
 気の短い連中は声々に叫んだ、この溢《あふ》るるごとき群衆をわけて浦和中学の選手が英気さっそうとして場内に現われた、揃いの帽子ユニフォーム、靴下は黒と白の二段抜き、靴のスパイクは日に輝き、胸のマーク横文字の urachu はいかにも名を重んずるわかき武士のごとく見えた。
 見物人は拍手喝采《はくしゅかっさい》した、すねあてとプロテクターをつけた肩幅の広い小原は、マスクをわきにはさみ、ミットをさげて先頭に立った、それにつづいて眉目秀麗《びもくしゅうれい》の柳光一、敏捷《びんしょう》らしい手塚、その他が一糸みだれずしずかに歩を運んでくる。
「バンザアイ、浦中万歳」
 総兵衛はありったけの声で叫んだ。浦中応援隊は応援歌をうたった、手に手に持った赤い旗は波のごとく一起一伏して声調|律呂《りつりょ》はきちんきちんと揃う。
 選手は入場するやいなやすぐキャッチボールを始めた、それがすむと、一同さっと散ってめいめいのシートシートに走った。やがてノックが始まった。ノッカーは慶応の選手であった山田という青年である、正確なノックは士気を一層|緊粛《きんしゅく》させた、三塁から一塁までノックして外野におよびまた内野におよぶまでひとりの過失もなかった、次第に興奮《こうふん》しきたる技術の早業《はやわざ》はその花やかな服装と、いかにも得意然《とくいぜん》たる顔色と共に見物人を圧倒した、ダブルプレー、トリプルプレー、その中に手塚のできばえはべっしてすばらしかった、かれはどんなゴロでも完全につかんだ、かれは頭上高き球をジャンプしてとった、左側に打たれた難球を転《ころ》んでつかんだ、つかむやいなや二塁に送った。その機敏さ、洒脱《しゃだつ》さはさながら軽業師《かるわざし》のごとく見物人を酔《よ》わした。
「手塚! 手塚!」
 の声が鳴りわたった。ちょうどそのとき黙々塾《もくもくじゅく》の一隊が入場した。
「きたきたきた」
 見物人は立ちあがってその方を見やった、同時に「わあッ」という笑声が一度に起こった。
 見よ! 黙々塾の一隊! それはマークの着いた帽子もなく揃いのユニフォームもない、かれらは一様にてぬぐいで鉢巻きをしていた、かれらのきたシャツにはメリヤスもあればねずみ色に古びたフランネルもあり、腕のないじゅばんもあった、かれらは大抵《たいてい》さるまたの上にへこ帯をきりきりと巻き、結び玉を後ろへたれていた、かれらのはいてるのは車夫のゴム足袋《たび》もあれば兵隊の古靴もある。九人はことごとくちがった服装、その先頭にコーチャーの安場は七輪《しちりん》のような黒い顔をしてこけ色になった一高の制服制帽で堂々と歩いてくる。
 いずれを見てもそれはいかにもみじめな一隊であった、かの花やかな浦中と対照してこれは何というきたならしい選手達だろう、見物人は戦わぬうちに勝敗を知った。
「だめだよ、つまらない」
 もう見かぎりをつけて帰ったものもある。一同は肩ならしをやったうえで、さっとシートに着いた、安場は上衣《うわぎ》を脱いでノックした。それはなんということだろう。
 元来晴れの戦場におけるノックには一種の秘訣《ひけつ》がある、それは難球を打ってやらぬことである、だれでも取れるような球を打ってやれば過失がない、過失がなければ気がおちつく、特に試合になれぬチームに対してはノッカーはよほど寛大に手心せねばいたずらに選手をあがらしてしまうおそれがある。
 なにを思ったか安場のノックは峻辣《しゅんらつ》をきわめたものであった、難球また難球! 第一番に三塁手がミスする、ついでショートの青木、これもみごとにミスする、やりなおす、またミスする、三度、四度! 千三は次第に胸が鼓動《こどう》した、見物人は口々にののし
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