腰にてぬぐいをさげ、帽子はこけ色になっている。かれは一年のあいだに身体《からだ》がめきめきと発達したので制服の腕や胴は身体の肉がはちきれそうに見える。かれは代書人の息子《むすこ》である。かれは東京から家へ帰るとすぐ黙々先生のご機嫌うかがいにくる。
「先生ただいま」
「うむ帰ったか」
 先生は注意深くかれの一挙一動を見る。
「学校はどうだ」
 まず学校のようすをきき、それから友達のことをきく。
「どんな友達ができたか」
「あんこうというやつがあります。口がおそろしく大きいんでりんごを皮ごと二口で食ってしまいます。それからフンプンというやつがあります。これは一年に一ぺんもさるまたを洗濯しませんから、いつでもフンプンとしています。それからまむしというやつ、これは生きたへびを頭からかじります」
「ふん、勇敢だな」
 先生はにこにこする。
「この三人はみんなできるやつです。頭がおそろしくいいやつです、三人とも政治をやるといってます」
「たのもしいな、きみとどうだ」
「ぼくよりえらいやつです」
「そうか」
 先生が一番注意をはらうのは友達のことである。かれはそのまむしやフンプンやあんこうがどんな話をしてどんな遊びをしてどんな本を読んでるかまでくわしくきいた。
「活動を見るか」
「さかんに見ましたが、あれは非常に下卑たものだとわかったからこのごろは見ません」
「それがいい」
 先生は安場がいつも友達の自慢をするのをすこぶる嬉しそうに聞いていた。人の悪口をいったり、自慢をいったりするのは先生のもっともこのまざるところであった。
 安場は実際先生思いであった。かれは帰省中には毎朝かならず先生をたずねて水をくみ飯をたき夜の掃除をした。先生は外へ出ると安場の自慢ばかりいう。
「あいつはいまに大きなものになる」
 先生はわずかばかりの汽車賃があればそっと東京へ出て一高を視察にでかける、そうして安場がどんな生活をしているかを人知れず監視するのであった。そのくせかれは安場に向かっては一度もほめたことはない。
「きみは英雄をなんと思うか」
「英雄は歴史の花です」と安場は即座に答える。
「カアライルをまねてはいかん。英雄は花じゃない、実である。もし花であるならそれは泛々《はんぱん》たる軽薄の徒といわなきゃならん。名誉、物質欲、それらをもって目的とするものは真の英雄とはいえないぞ、いいか。英雄は人類の中心点である、そうだ、中心点だ、車の軸《じく》だ、国家を支える大黒柱だ、ギリシャの神話にアトラス山は天が墜《お》ちるのを支《ささ》えている山としてある。天がおちるのを支えるのは英雄だ、花だなんてそんな浮わついた考えではまだ語るにたらん。もっと修養しろ馬鹿ッ」
 すべてこういう風である、どんなにばかといわれても安場はそれを喜んでいた。
「先生はありがたいな」
 かれはいつもこういった。かれとチビ公はすぐに親友になった。おりおりふたりは郊外へでて長い長い堤の上を散歩した。寒い寒い風がひゅうひゅう野面《のづら》をふく、かれあしはざわざわ鳴って雲が低くたれる、安場は平気である。かれは高い堤に立って胸一ぱいにはって高らかに歌う。
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ああ玉杯《ぎょくはい》に花うけて、緑酒《りょくしゅ》に月の影《かげ》やどし、
治安の夢《ゆめ》にふけりたる、栄華《えいが》の巷《ちまた》低く見て、
向ヶ岡《むこうがおか》にそそり立つ、
五寮《ごりょう》の健児《けんじ》意気高し。……
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 バリトンの声であるが、量は豊かに力がみちている。それは遠くの森に反響し、近くの野面《のづら》をわたり、べきべきたる落雲を破って、天と地との広大無辺な間隙を一ぱいにふるわす、チビ公はだまってそれを聞いていると、体内の血が躍々《やくやく》と跳《おど》るような気がする。自由豪放な青春の気はその疲《つか》れた肉体や、衰《おとろ》えた精神に金蛇銀蛇の赫耀《かくよう》たる光をあたえる。
「もっとやってくれ」とかれはいう。
「うむ、よしッ」
 安場は七輪《しちりん》のような顔をぐっと屹立《きつりつ》させると同時に鼻穴をぱっと大きくする、とすぐいのししのようにあらい呼吸《いき》をぷうとふく。
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ふようの雪の精をとり、芳野《よしの》の花の華《か》をうばい、
清き心のますらおが、剣《つるぎ》と筆とをとり持ちて、
一たび起《た》たば何事か、
人生の偉業《いぎょう》成らざらん。
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 うたっていくうちにかれの顔はますます黒く赤らみ、その目は輝き、わが校を愛する熱情と永遠の理想と現在力学の勇気と、すべての高邁《こうまい》な不撓《ふとう》な奮闘的な気魄《きはく》があらしのごとく突出してくる。チビ公は涙をたれた。
「きみはな、貧乏を気にしちゃいかんぞ」と
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