安場はいった。「貧乏ほど愉快なことはないんだ」
 かれはチビ公のかたわらに座っていいつづけた。
 おれは貧乏だから書物が買えなかった。おれは雑誌すら読んだことはなかった。すると先生はおれに本を貸してくれた。先生の本は二十年も三十年も前の本だ、先生がおれに貸してくれた本はスミスの代数《だいすう》とスウイントンの万国史と資治通鑑《しじつがん》それだけだ、あんな本は東京の古本屋にだってありやしない。だが新刊《しんかん》の本が買えないから、古い本でもそれを読むよりほかにしようがなかった、そこでおれはそれを読んだ、友達が遊びにきておれの机の上をジロジロ見るとき、おれははずかしくて本をかくしたものだ、太政官印刷《だじょうかんいんさつ》なんて本があるんだからな、実際はずかしかったよ。おれはこんな時代おくれの本を読んでも役に立つまいと思った、だが、先生が貸してくれた本だから読まないわけにゆかない、それ以外には本がないんだからな、そこでおれは読んだ。最初はむずかしくもありつまらないと思ったが、だんだんおもしろくなってきた、一日一日と自分が肥《ふと》っていくような気がした。おれは入学試験を受けるとき、ほんの十日ばかり先生が準備復習をしてくれた。
「こんな旧式《きゅうしき》なのでもいいのか知らん」とおれは思った。
「だいじょうぶだいけ」と先生がいった、おれはいった、そうしてうまく入学した。
「なあチビ公」
 安場はなにを思ったか目に一ぱい涙をたたえた。
「試験の前日、先生はおれにこういった」
「安場、腕ずもうをやろう」
「ぼくですか」
「うむ」
 先生はがちょうのように首が長く、ひょろひょろやせて、年が老いている。おれはこのとおり力が自慢だ、負かすのは失礼だと思ったが、さりとて故意《こい》に負けるとへつらうことになる、互角《ごかく》ぐらいにしておこうと思った。
「やりましょう」
 先生は長いひざを開いて畳《たたみ》にうつぶしになった。さながら栄養不良のかわずのよう!
「さあこい」
「よしッ」
 おれもひじを畳についた、がっきと手と手を組んだ、おれはいい加減《かげん》にあしらうつもりであった、先生の痩《や》せた長い腕がぶるぶるふるえた。
「弱虫! なき虫! いも虫! へっぴり虫!」と先生はいった。
「先生こそ弱虫です」
「なにを!」
「どっこい」
 おれは少しずつ力をだして不動直立の態度をとるつもりであった。だが先生の押す力がずっとひじにこたえる。
「弱いやつだ、青年がそれでどうする、米の飯を食わせておくのはおしいものだ、やい、いも虫、なき虫、わらじ虫!」
 あまりしつこく虫づくしをいうのでおれもちょっと癪《しゃく》にさわった。
「いいですか、本気をだしますぞ」
「よしッ、虫けらの本気はどんなものか、へっぴり虫!」
「よしッ」
 おれは満身の力をこめて一気に先生を押したおそうとした、先生の腕が少しかたむいた。
「いいかな」
 先生はこういって、「うん」と一つうなった、たよたよとした細い腕はがきっと組んだまま大盤石《だいばんじゃく》!
「おやッ」
 おれは頭を畳《たたみ》にすりつけ、左の掌《てのひら》で畳をしっかとおさえ肩先に力をあつめて押しだした。
「虫があばれるあばれる」と先生はげらげらわらった。おれはどうもふしぎでたまらない。負けるはずがないのだ。
「いいかな」
 先生はこういっておれのこぶしをひた押しに倒してしまった。
 おれは汗をびっしょりかいて、ふうふう息をはずませた。
「どうだ」
 首を傾《かし》げてふしぎがってるおれの顔を見て先生はわらった。
「ふしぎですな」
「おまえはばかだ」
「なんといわれてもしようがありません」
「いよいよジャクチュウかな」
「ジャクチュウとはなんですか」
「弱虫だ、はッはッはッ」
「先生はどうして強いんですか」
「わしが強いんでない、おまえがジャクチュウなんだ」
「ぼくはそんなに弱いはずがないのです」
「おまえはどこに力を入れてるか」
「ひじです」
「腕をだしてみい」
 先生のひょろひょろした青ざめた腕とおれのハチ切れそうに肥った円い赤い腕が並んだ。
「ひじとひじの力なら私の方がとてもかなわないはずじゃないか」と先生がいった。
「じゃ先生は?」
 先生はにっこり笑って、胸の下を指さした。
「腹ですか」
「うむ、力はすべて腹から出るものだ、西洋人の力は小手先からでる、東洋人の力は腹からでる、日露戦争《にちろせんそう》に勝つゆえんだ」
「うむ」
「学問も腹だ、人生に処する道も腹だ、気が逆上《ぎゃくじょう》すると力が逆上して浮きたつ、だから弱くなる、腹をしっかりとおちつけると気が臍下丹田《せいかたんでん》に収《おさ》まるから精神爽快《せいしんそうかい》、力が全身的になる、中心が腹にできる、いいかおまえはへそをなんと思
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