ん》さすらいなさる。ああおそれ多いことじゃ」
 おじいさんは頭を大地につけてないている、千三は涙が目にたまって玉顔《ぎょくがん》を拝むことができなかった。
「御輿《みこし》の御後に供奉《ぐぶ》する人はあれは北畠親房《きたばたけちかふさ》じゃ」
「えっ?」
 千三は顔をあげた。
 赤地にしきの直垂《ひたたれ》に緋縅《ひおどし》のよろい着て、頭に烏帽子《えぼし》をいただき、弓と矢は従者に持たせ、徒歩《かち》にて御輿《みこし》にひたと供奉《ぐぶ》する三十六、七の男、鼻高く眉《まゆ》秀《ひい》で、目には誠忠の光を湛《たた》え口元には知勇の色を蔵《ぞう》す、威風堂々としてあたりをはらって見える。
 千三は呼吸《いき》もできなかった。
「いずれも皆忠臣の亀鑑《きかん》、真の日本男児じゃ、ああこの人達があればこそ日本は万々歳まで滅びないのだ」
 こうおじいさんがいったかと思うととっとと走っていく、その早いこと百メートル五秒間ぐらいである。
「待ってくださいおじいさん、お紙幣《さつ》になるにはまだ早いから」
 こういったが聞こえない。おじいさんは桜《さくら》の中に消えてしまった。
 にわかにとどろく軍馬の音! 法螺《ほら》! 陣太鼓《じんだいこ》! 銅鑼《どら》ぶうぶうどんどん。
 向こうの丘《おか》に現われた敵軍の大勢! 丸二つ引きの旗をへんぽんとひるがえして落日を後ろに丘《おか》の尖端《とっぱな》! ぬっくと立った馬上の大将《たいしょう》はこれ歴史で見た足利尊氏《あしかがたかうじ》である。
 すわ[#「すわ」に傍点]とばかりに正行《まさつら》、正朝《まさとも》、親房《ちかふさ》の面々|屹《きっ》と御輿《みこし》を護《まも》って賊軍をにらんだ、その目は血走り憤怒《ふんぬ》の歯噛《はが》み、毛髪ことごとく逆立《さかだ》って見える。
「やれやれッ逆賊《ぎゃくぞく》をたたき殺せ」と千三は叫んだ。
「これ千三、これ」
 母の声におどろいて目がさめればこれなん正《まさ》しく南柯《なんか》の夢《ゆめ》であった。
「どうしたんだい」
「どうもこうもねえや、畜生《ちくしょう》ッ、足利尊氏《あしかがたかうじ》の畜生ッ」と千三はまだ夢中である。
「喧嘩の夢でも見たのか、足利《あしかが》の高さんと喧嘩したのかえ」
「なんだって畜生ッ、高慢な面《つら》あしやがって、天子様に指でも指してみろ、おれが承知しねえ、豆腐屋だと思って尊氏《たかうじ》の畜生ばかにするない」
「千三どうしたのさ、千三」
「お母《かあ》さんですか」
 千三はこういってはじめてわれにかえった。母はじっと千三を見つめた、千三の顔は次第次第にいきいきと輝いた。
「お母さん、ぼくは勉強します」
 母はだまっている。
「ぼくは今日《きょう》先生にぼくのご先祖のことを聞きました。北畠顕家《きたばたけあきいえ》、親房《ちかふさ》……南朝《なんちょう》の忠臣です。その血を受けたぼくはえらくなれない法がありません」
「だけれどもね、このとおり貧乏ではおまえを学校へやることもできずね」
 母はほろりとした。
「貧乏でもかまいません。お母さん、顕家《あきいえ》親房《ちかふさ》はほんのはだか身でもって奥州や伊勢や諸所方々で軍《いくさ》を起こして負けては逃げ、逃げてはまた義兵を集め、一日だって休むひまもなく天子様のために働きましたよ、それにくらべると日に三度ずつご飯を食べているぼくなぞはもったいないと思います。ねえお母さん、ぼくはいま夢を見たんです。先祖の親房《ちかふさ》という人はじつにりっぱな顔でした、ぼくのようにチビではありませんよ、尊氏《たかうじ》のほうをきっとにらんだ顔は体中忠義の炎《ほのお》が燃えあがっています。ぼくだって忠臣になれます。ぼくだってね、チビでも忠臣になれないことはないでしょう」
「いい夢を見たね」
 母は病みほおけた身体《からだ》を起こして仏壇に向かっておじぎした。
 千三は生まれかわった。翌日からなにを見ても嬉しい。かれは外を歩きながらそればかりを考えている。
「やあ向こうから八百屋の半公がきたな、あれも忠臣にしてやるんだ。おれの旗持ちぐらいだ、ああぶりき屋の浅公、あれは母親の財布《さいふ》をごまかして活動にばかりいくが、あれもなにかに使えるから忠臣にしてやる、やあ酒屋のブルドッグ、あれは馬のかわりにならないから使ってやらない」
 黙々《もくもく》先生はチビ公が急に活気づいたのを見てひとりほくほく喜んでいた。
 ある日かれはひとりの学生を先生に紹介《しょうかい》された。それは昨年第一高等学校に入学した安場五郎《やすばごろう》という青年である。黙々塾《もくもくじゅく》をでて高等学校へはいれたのは安場ひとりきりである。先生は安場が好きであった。色が赤黒く顔は七輪に似て、ようかん色になった制服を着て
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