ん、頭寒足熱ですかな、足をあたためて頭をひやして安眠させるといいです、ああん、薬は散薬と水薬……ああん、すぐでよろしい」
かれはこういって先生から借りて来た鞄《かばん》を取り上げて室《へや》を出た。
「おい、幸吉!」
幸吉とは車夫の名である、かれはいつも朝と晩に尻はしょりをして幸吉とふたりで門前に水をまいているのである。書生と車夫は同じくこれ奉公人仲間、いわば同階級である。それがいま傲然《ごうぜん》と呼び捨てにされたので幸吉たるもの胸中いささかおだやかでない、かれはだまって答えなかった。
「おい幸吉! なにをしとるかッ、ああん」
「早くゆきましょうよ森さん」と幸吉は業腹《ごうはら》まぎれにいった。
「こらッ外套と帽子をおくれ、ああん」
森は外へ出た、車の走る音が聞こえた、寒さは寒し不平は不平なり、おそらく幸吉、車もくつがえれとばかり走ったことであろう。
車におくれじと千三も走った、かれが医者の玄関に着いたとき、奥《おく》ではやはり囲碁《いご》の音が聞こえていた。
母の病状はそれ以上に進まなかった。が、さりとて床《とこ》をでることはできなかった。
「明日《あす》になったら起きられるだろう」
こう母はいった、だが翌日も起きられなかった。病弱な彼女が寒さをおかして毎日毎夜内職を働いたその疲れがつもりつもって脳《のう》におよんだのである。千三は豆腐をかついで町まわりの帰りしなに手塚の家へよって薬をもらうのであった、最初薬は二日分ずつであったが、母のお美代はそれをこばんだ。
「じきになおるから、一日分ずつでいい、二日分もらっても無駄になるから」
これはいかにも道理ある言葉であった、どういうわけか医者は二日分ずつの薬をくれる、それも一つはかならず胃《い》の薬である、金持ちの家は薬代にも困らぬが、まずしき家では一日分の薬価は一日分の米代に相当する。お美代は毎日薬を飲むたびにもったいないといった。
ある日千三は帰って母にこういった。
「お母《かあ》さん、手塚の家の天井《てんじょう》は格子《こうし》になって一つ一つに絵を貼《は》ってあります、絹にかいたきれいな絵!」
「あれを見たかえ」と母は病いにおとろえた目を向けてさびしくいった。「あれは応接室だったんです、お父《とう》さんが支那風が好きだったから」
「そう?」
「あの隣の室《へや》のもう一つ隣の室《へや》は茶室風でおまえがそこで生まれたのです、萩《はぎ》の天井です、床《とこ》の間《ま》には……」
母の声はハタとやんだ、彼女は目をうっとりさせて昔その夫《おっと》が世にありしときの全盛な生活を回想したのであった。
「あのときには女中が五人、書生が三人……」
睫毛《まつげ》を伝うて玉の露がほろりとこぼれる。
「お母さん! つまらないことをいうのはよしてください、ぼくはいまにあれ以上の家を建ててあげます」
「そうそう、そうだね」
母はさびしくわらった、千三はたまらなく苦しくなった、いままで胸の底におさえつけておいた憂欝《ゆううつ》がむらむらと雲のごとくわいた。かれは薬をもらいに医者の家へゆく、支那風の天井の下に小さく座っていると例の憂欝がひしひしとせまってくる。
「ああここがおれの生まれたところなんだ、おれが生まれたときに手塚の親父がぺこぺこ頭をさげて見舞いにきたんだ、それがいまそいつに占領されてあべこべにおれの方が頭をさげて薬をもらいにきてる」
ある日かれはこんなことを考えながら門をはいろうとするとそこで代診《だいしん》森君が手塚とキャッチボールをしていた。
「そらこんどはドロップだぞ」
手塚は得意になって球をにぎりかえてモーションをつけた。
「よしきた」
森君はへっぴり腰になって片足を浮かしてかまえた、もし足にあたりそうな球がきたら片足をあげて逃がそうという腹なのである。
「さあこい」
「よしッ」
球は大地をたたいて横の塀《へい》を打ちさらにおどりあがって千三の豆腐おけを打ち、ころころとどぶの方へころがった。
「おい豆腐屋! 早く球をとれよ」手塚がさけんだ。
「はッ」
千三はおけをかついだまま球をおっかけた、おけの水はだぶだぶと波をおどらして蓋《ふた》も包丁も大地に落ちた。
「やあやあ勇敢勇敢」と森君は喝采した、千三は球が石のどぶ端を伝って泥の中へ落ちこもうとするやつをやっとおさえようとした、てんびん棒が土塀にがたんとつきあたったと思うとかれははねかえされて豆腐おけもろとも尻餅《しりもち》をついた。豆腐は魚の如くはねて地上に散った。
「ばかだね、おけを置いて走ればいいんだ、ばかッ」
手塚はこういって自分でどぶどろの中から球をつまみあげ、いきなり千三のおけの中で球を洗った。
「それは困ります」と千三は訴《うった》えるようにいった。
「豆腐代を払ったら文句がないだろ
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