ちいち漢文の文法と対照した、そのために生徒は英漢の文法を一度に知ることができた。
先生はいかなる場合にも虚偽と臆病をきらった。臆病は虚偽の基である、かれは講義をなしつつあるあいだに突然こういうときがある。
「眠い人があるか」
「あります」と千三が手をあげた。
「庭に出て水をあびてこい」
先生は千三の正直が気にいった。
冬がきた、正月も間近になる、せめて母に新しく綿《わた》のはいったもの一枚でも着せてやりたい、こういう考えから千三は一生懸命に働いた、しかも通学は一晩も休まなかった、かれは先生の家をでるとすぐぐらぐら眠りながら家へ帰る夜が多かった。
と、災厄《さいやく》はつぎからつぎへと起こる、ある夜かれが家へ帰ると母が麻糸《あさいと》つなぎをやっていた、いくらにもならないのだが、彼女はいくらかでも働かねば正月を迎えることができないのであった。
「ただいま」
千三は勢いよく声をかけた。
「お帰り、寒かったろう」と母は火鉢の火をかきたてた、灰《はい》の中にはわずかにほたるのような光が見えた、外はひゅうひゅう風がうなっている。
「寒いなあ」と千三《せんぞう》は思わずいった。
「お待ちよ。いま消し炭を持ってくるから」
母は麻糸をかたよせてたとうとした。
「おや」
母は立てなかった。
「おや」
母はふたたびいって立とうとしたが顔がさっと青くなって後ろに倒れた。
「お母《かあ》さん」
千三はだき起こそうとした。母の目は上の方へつった。
「お母さん」
声におどろいて伯父夫婦が起きてきた。千三は早速手塚医師のもとへかけつけた。元来かれは手塚のもとへいくのを好まなかった、しかし火急の場合、他へ走ることもできなかった。
粉雪まじりの師走《しわす》の風が電線にうなっていた、町はもう寝しずまって、風呂屋から流れてくる下水の湯気がどぶ板のすきまから、もやもやといてついた地面をはっていた。
「今晩は……今晩は……」
千三は手塚の門をたたいた。
音がない。
「今晩は!」
かれは声をかぎりに呼《よ》び力をかぎりにたたいた。奥にはまだ人の声がする。
「どうしたんだろう」
千三は手塚なる医者が金持ちには幇間《ほうかん》のごとくちやほやするが、貧乏人にはきわめて冷淡だという人のうわさを思いだした、それと同時にこの深夜に来診を請うと、ずいぶん少なからぬお礼をださねばなるまいが、それもできずにむやみと門をたたくのはいかにも厚かましいことだと考えたりした。
やっとのことで書生の声がした。
「どなた?」
「豆腐屋の青木ですが、母が急病ですからどうかちょっとおいでを願いたいんです」
「はああ――」とみょうに気のぬけた返事が聞こえた。「豆腐屋の……青木?」
「はい」
「先生は風邪気《かぜけ》でおやすみですから……どうですかうかがってみましょう」
「どうぞお願いします、急病ですから」
千三は暗い門前でしずかに耳をそばだてた、奥で碁石《ごいし》をくずす音がちゃらちゃらと聞こえる。
「なんだ、碁を打ってるのにおやすみだなんて」
こう千三は思った。とふたたび小さな窓が開いた。
「ただいま伺《うかが》います」
「ありがとうございます」と千三は思わず大きな声でいった。
「どうぞ、よろしく、ありがとうございます」
千三は一足先に家へ帰った、母はまだ正体《しょうたい》がない。
「冷えたんだから足をあたためるがいい」
こう伯父がいった。伯母はただうろうろして仏壇に灯《ひ》をともしたりしている、千三はすぐ火をおこしかけた。そこへ車の音がした。
「どうもごくろうさまで……どうぞ」
くぐりの戸をはいってきたのは手塚医師でなくて代診《だいしん》の森という男である。この森というのは、ずいぶん古くから手塚の薬局にいるが、代診として患者を往診した事はきわめてまれである、千三はいつも森が白い薬局服を着て往来でキャッチボールをやってるのを見ているのではなはだおぼつかなく思った。
「先生が風邪気《かぜけ》なんで……」
森はこういってずんずん奥へあがりこんだ、かれはその外套と帽子を車夫にわたした、それから眼鏡をちょっと鼻の上へせりあげて病人を見やった。
「どんなに悪いんですか、ああん?」
かれはお美代の腕《うで》をとって脈をしらべた。それから発病の模様を聞きながら聴診器を胸にあてたり、眼瞼《まぶた》をひっくりかえしてみたりした、その態度はいかにもおちつきはらっている。これがおりおり玄関で手塚と腕押しをしたりしゃちほこ立ちをしたり、近所の子どもをからかったりする人とは思えない。門口で車夫がしきりにせきばらいをしている、それは「寒くてたまらないからいい加減にして帰ってくれ」というかのごとく見えた。
「はあん……これは脳貧血《のうひんけつ》ですな、ああん、たいしたことはありませ
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